第十一話 最後の秋
放課後の体育館は乾いていた。十一月に入って空気が変わった。夏場はシューズが汗で滑ったフロアが、今は踏み込むたびに足裏が吸いつくように止まる。窓は閉め切っている。ボールが床を叩く音と、助走の靴音だけが壁に当たって返ってくる。
堀内さんがネット際でフェイントを繰り返していた。レフト側にブロッカー代わりの台が置いてあって、その横を通す。角度を少しずつ変えている。
音が小さい。
叩きつけるのではなく、ボールの下を撫でるようにしてブロックの外側へ逃がす。手首の返し方が一本ごとに変わっていた。同じフォームに見えて、最後の指先だけが別の仕事をしている。
三本目。台の横をボールが通過して、エンドラインの手前に落ちた。四本目は台の上端を掠めてネットに引っかかる。堀内さんが首を傾げた。ボールを拾い上げる指が、革の縫い目を一度なぞってから同じ位置に戻る。五本目は台の上端すれすれを抜けて、さっきより十センチ奥に落ちた。
叩いていない。撫でているだけで、あの角度で抜ける。
スパイクって、叩くだけじゃないのか。
目が止まった。考えるより先に、体が反応していた。指先の感覚が堀内さんの手首を追っている。あの角度、あの送り出し方——ブロックの横をあの精度で通されたら、止められない。打つだけじゃない。自分の腕で再現したらどうなるか。答えは出ない。ただ目が離せなかった。
「堀内先輩のフェイント、どこに落ちるかわかんないっすよね」
ハチがいつの間にか隣に来ていた。ボールを脇に抱えたまま、堀内さんの手首を見ている。
「カバー反応できないんすよ。俺もあれ覚えたいんすけど」
「お前はまず速攻を磨け」
「えー」
ハチがボールを両手でくるくる回しながら、不服そうな顔をしてコートに戻っていった。
「卒業したら何すんの」
アニキの声が聞こえたのは、堀内さんがネットからボールを外しているところだった。アニキはコート脇のベンチに座って膝にタオルを広げている。レシーブ練習のあとで汗が腕を伝っている。アニキはタオルで前腕を拭いて、巻き直した。
「知らん」
「大学行くんでしょ」
「たぶん」
「バレーは」
「やらない」
アニキが少し笑った。タオルで首の横を拭く。
「俺もだわ。三年間床を舐めて、もう十分」
「片桐がやめたらどこのリベロも楽になる」
「急に褒めるなよ」
「事実だろ」
堀内さんがボールを手に取りながら言った。アニキが鼻で息を吐く。
「俺が聞きたいのは引退の感傷じゃなくて、最後の三回戦でお前がどこ打つかの話」
堀内さんの手が止まった。ボールを片手で持ったまま、アニキのほうを見る。
「どこって。いつもと同じだろ。ブロックの横」
「横のどっち」
「その時になったら分かる」
アニキが立ち上がって、前腕のタオルを外す。
「あと何試合あるか、数えたことある」
「数えない」
堀内さんが次のボールを手に取った。
「数えたら打てなくなる」
アニキが何も返さずにコートに戻っていく。堀内さんのフェイントの角度がまた少しだけ変わった。台の横を通過した打球がコートの奥で弾む。音は相変わらず小さかった。
コートの隅で、キャプテンが膝にテーピングを巻いていた。
ベンチの端に腰を下ろして、右膝の皿の下あたりにテープを回している。引いて、切る。ぴっ、と短い音。巻き方に迷いがない。何度もやっている手つきだった。
近づきかけて、足が止まった。
キャプテンがこちらを見ている。目が合った。
首を横に振られた。ゆっくりと、一回だけ。
口は開かない。テーピングの端を指で押さえて膝を二度曲げ伸ばしすると、キャプテンはそのまま立ち上がった。コートに歩いていく。足取りは変わらない。ブロックの列に戻って、ポジションについた。
その場に立ったまま、テーピングの切れ端が床に一枚残っているのを見ていた。
体育館の奥で、足音が鳴っている。
タカだった。後衛の位置からバックアタックの助走を踏んでいる。三歩。左、右、左で踏み切って跳ぶ。トスはない。ボールもない。ただ助走の形だけを繰り返していた。
着地。首を一回鳴らして、元の位置に戻る。また三歩。左、右、左。
コートの脇で水を飲んでいた。タカの足音を聞きながら、堀内さんのフェイントの手首を思い出している。叩かない打ち方。走り込む助走。二つが頭の中で回っている。
「何考えてる」
堀内さんだった。タオルで指先を拭きながら、いつの間にか隣に立っている。
「……思い切り打てないんです」
口から出ていた。理由は言えない。堀内さんは聞き返さなかった。
「力で打てないなら、力を使わない打ち方を覚えればいい」
堀内さんがボトルのキャップを回した。
「俺のフェイントは叩いてない。ブロックの外側を撫でてるだけで点が取れる。打ち方は一つじゃない」
叩かないで点を取る。堀内さんのフェイントはそれを証明していた。
「堀内さんみたいな器用さは俺にはないです」
「器用じゃなくていい。お前には速さがある」
堀内さんの目がネットの向こうを見ていた。タカの足音がまだ響いている。走り込んで、踏み切って、着地して、また走る。あの足音が止まらない。
「走れ。ブロッカーは走ってる人間を追えない」
走る。叩くんじゃなくて、走る。タカの足音と堀内さんの言葉が重なった瞬間、胸の奥で何かが動いた。力が入らないなら、力じゃない方法で抜ける。走って、スピードで。
堀内さんはそれ以上何も言わなかった。タオルで首を拭いて、フェイント練習に戻っていく。
直を探した。ベンチの端でノートを開いている。駆け寄って、隣に座った。
「直。新しい攻撃を試したい」
直がペンを止めた。こっちを見る。
「堀内さんに言われた。走ること自体が武器になるって」
直の目が変わった。配球を組み立てる時の目だ。数秒、何かを計算している。
「分かった。サインを決めよう」
直が右手の人差し指を一本立てた。
「これを出したら走れ。三回戦までに合わせる」
頷いた。直がノートに何か書き込んでいる。指の形と、トスの出し方と、助走のタイミング。まだ一度も試していない攻撃が、直のノートの中で形になり始めていた。
体育館を見渡した。
堀内さんがまだフェイントを打っている。一本ごとに角度が変わる。アニキが床に飛び込むたびにユニフォームの汚れが増えていく。キャプテンの膝にはテープが巻いてある。奥で、タカの足音がまだ止まらない。
あの人たちの最後の秋だ。
この腕は全力で振れない。でも走れる。堀内さんが言った。走ること自体が武器になると。直がサインを作ってくれた。
三回戦まで時間はある。合わせる。走って、抜く。あの人たちの秋を、この腕で終わらせない。
タカの足音に合わせるように、ストレッチに戻った。手を床についた。十一月の冷たさが掌に伝わる。冷たいけど、さっきより軽い。
練習が終わって、片付けをしている時だった。
「藤原」
監督が通りすがりに言った。足を止めない。
「三回戦、スタメンで出す」
振り返った時にはもう背中が角を曲がっている。付け足しはなかった。




