第十話 打てなくなってる
チームに合流したのは通路を出て、体育館のロビーに足を踏み入れた時だった。
タカがシューズの紐をほどいている。堀内さんがアニキとスコアの話をしていて、メモ少年がメモ帳を開いたまま壁にもたれて何かを書き足している。直はスポーツバッグのファスナーを閉めかけたところでこっちに気づいた。
「遅かったね」
軽い声だった。ハチの話をしたのか、しなかったのか。直の顔からは読めない。
「ハチと少し話してた」
タカがシューズを袋に入れながら、顔を上げた。
「藤原、二セット目の時間差さ。あれ、練習してたの」
「昨日の練習で五本だけ合わせた」
「……マジかよ」
タカが小さく首を振って、また靴袋の口を縛り始めた。
荷物のところに行った。バッグの中からタオルを出して首にかける。シューズの底についた体育館の埃を手で払って、袋に入れた。口を縛る指が少し強い。
腕の中に打ち切れなかった感触が残っている。
二回戦を勝っている。帰り支度をしているチームの空気も、スリッパに履き替えたタカの肩の軽さも、どれも「勝った」と言っていた。堀内さんが「第二セット、中盤の連続得点がよかったね」とアニキに笑いかけて、アニキが「あそこはサーブが効いてた」と短く返す。勝ったチームの会話だった。
ハチの声がロビーのどこかで誰かと話しているのが聞こえる。さっきの通路の声とは別の色をしていた。
全力じゃないっすよね。
靴袋をバッグに押し込む。手が止まった。右手を開いて、握った。今日のスパイクの手応えを指先で探す。三本打って、三本とも腕の芯まで届いていない感触がある。セミの速度に合わせているから、と自分に言い聞かせた回数は、もう数えていない。
ハチが通りがけに俺の肩をぽんと叩いた。
「藤原先輩、次も時間差やりましょうよ。あれ、めちゃくちゃ楽しかったっす」
「……お前は元気だな」
「元気じゃないバレーつまんないっすよ」
ハチはそのままメモ少年のほうに歩いていった。
「王様、バス出るよ」
直の声で顔を上げる。チームが玄関口に向かって動き出していた。ハチがメモ少年と並んで歩きながら、さっきの試合の話をしている。声が弾んでいた。コートの上で「全力じゃないっすよね」と言った時とは、まるで別人みたいに。
バッグの肩紐を引っ張り上げて、その列に混ざった。
学校近くのコンビニ前でバスが停まった。ここで解散になる。
チームが散っていく。タカが「ジュース買ってくわ」と自動ドアに吸い込まれて、メモ少年がそのあとをついていった。直が「お疲れ」と手を振って夜道に消えていく。
コンビニの蛍光灯が白い。アスファルトの上に四角く光が落ちていて、十一月の夜気が首筋を冷やしていた。息が薄く白くなる。
「藤原」
声は横からだった。
コンビニの入口脇に名取が立っている。ショルダーバッグを肩にかけて、体操服の上にウインドブレーカーを羽織っていた。片手にアイスバーを持っている。袋はもう破いてあって、先端を少しだけ齧った跡がある。女子バレー部の練習はもう終わったのか、髪が少しだけ湿っている。
「勝ったんでしょ」
「ああ」
名取はアイスバーを咥えたまま少し笑った。勝ち負けに興味があるのかないのか、その笑い方では分からない。コンビニの前のガードレールに腰を預けて、こっちを見ている。自動ドアが開いて閉まる音がして、知らない客が買い物袋を提げて出ていった。
「途中から見てた」名取が言った。アイスバーを口から離して、前を向いたまま。「二セット目。時間差やってたよね、あの一年と」
「ハチ」
「そう、ハチくん。囮がよく効いてた」
名取のバッグの紐が肩からずれかけて、アイスを持っていない方の手で直す。寒いのにアイスを食べている。鼻の頭が少し赤い。
「見てたのか」
「音は勝手に聞こえる」
「音?」
「藤原のスパイク。三本とも同じ音だった」
足が止まりかけた。名取はアイスバーの先を齧って、こっちを見た。
「三本とも?」
「三本とも。コースは変えてたけど、音は全部同じ」
「……お前、試合中にそんなとこまで聞いてんの」
「試合中じゃないよ。観てた」
名取の声は速い。事実を並べているだけの温度で、感想がない。良いとも悪いとも言わない。試合を見ていた、スパイクの音を聞いていた、三本とも同じだった。それだけを、アイスを齧るリズムのまま口に乗せている。
「あの一年が囮で跳んで、ブロック減らして、藤原がセミで打つ。形はきれいだったよ。点にもなってたし」
右手を開いた。今日のスパイク、手のひらに返ってきた感触を探す。三本打って、全部、同じ振動だった。自分でも気づいていた。名取に言われるまでもなく、腕の芯が知っている。
名取がガードレールに背中を預けたまま、ウインドブレーカーのファスナーを首元まで上げた。ファスナーの金具を引く指が細くて、爪が短い。セッターの爪だ。ボールに触る人間の手だった。アイスバーの残りを棒ごと口に押し込んで、棒だけ引き抜く。それからこっちを見た。
「でもさ、一年前と音が違う」
「セミだから」
「セミでもオープンでも、芯を食った音は同じでしょ。コースが変わるだけで、音の質は打ち方で決まる」
言い返せない。名取の目は笑っていない。さっきまでの軽さがそこだけ剥がれて、セッターがスパイカーの打球を測る時の精度で俺の肩と腕を見ている。コンビニの蛍光灯が名取の顔を白く照らしていた。
去年なら、この程度の会話で黙ったりしなかった。音が同じだと言われたら「コース変えてんだから問題ない」と返せた。今は返せない。名取が見ているものと、自分の腕が知っているものが、同じだと分かっているからだ。
「前に言ったでしょ。打てる顔と打っていい顔は違うって」
あの時は意味が掴めなかった。今も掴みきれていない。
「藤原くんさ」
名取の声が少しだけ落ちた。速さは変わらない。
「打てなくなってるでしょ」
コンビニの自動ドアが開いて、中の暖気がふわっと漏れて、すぐ閉じた。駐車場の奥でバスのエンジン音だけが遠くで回っている。
喉の奥が詰まる。
セミだから。タイミングが合わないだけだ。そう言えば楽になる。嘘だ。自分でも分かっている。名取の目がまっすぐこっちを見ていた。
「……分かってる」
口から出ていた。言うつもりはない。ハチにも言われた。三本とも同じ音だと、あの通路で。自分の耳でも聞こえていた。腕の芯でも分かっていた。
「なんで分かるんだよ」
「分かるよ」
「お前、別のチームだろ」
「セッターだから。打てるか打てないか、見ればだいたい分かる」
名取の声は軽い。軽いのに、正確だった。同情がない。代わりに精度がある。助けようとしていない。見えたことを言っているだけだ。だから刺さる。
少しだけ間があく。名取がガードレールから背中を離して、バッグの紐を肩に引き上げた。アイスの棒をコンビニのゴミ箱に放り込む。
「まあ、見てればそのうち分かるんじゃない。自分でも」
何も返せない。名取がそれ以上何も言わずに、駐車場のほうに歩き出す。三歩目で一度だけ肩越しに視線を寄こして、何か言いかけた口が、小さく閉じた。
「名取」
呼び止めていた。自分でも驚くくらい、素直な声が出ている。名取の足が止まる。
「……ありがとな。言ってくれて」
名取は振り返らない。片手だけ軽く上げて、そのまま歩いていった。歩き出す一歩目だけ、つま先がアスファルトを引っかけた。すぐに直ったけど、名取がつまずくのは初めて見た。バッグの紐が肩の上で揺れている。
一人になった。
ガードレールの冷たさが腰にある。コンビニの蛍光灯が白い四角を地面に落としていて、十一月の空が高かった。
全力じゃない。ハチの声。体で感じたことをそのまま出しただけの、まっすぐな一言。
打てなくなってる。名取の声。セッターの目で測って、事実として置いた一言。
ハチは囮で跳んだコートの中から見て、名取は観客席の音で聞いた。場所も角度も違う。指しているものは同じだった。
ガードレールから腰を離した。帰り道に足を向ける。
十一月の夜の空気が冷たい。街灯が等間隔に並んでいて、光の切れ目を踏みながら歩く。
二人が同じことを言った。ハチは体で、名取は目で。二人とも、嘘を言わない人間だ。
右手を握って、開く。スパイクの形を作ってみる。指先には何も残っていない。去年なら、試合のあと何時間でも手のひらにボールの芯が残っていた。打った感触がもう消えている腕を、街灯の光の下でぶらさげている。
なら、たぶん本当だ。
俺は打てなくなっている。
認めたら、少しだけ体が軽くなった。冷たい空気が肺に入って、吐いた息が白い。




