太清道徳天尊の法
李玄は白檀の割り木を取り出し火をつけた。先端は赤く燻り、もうもうと煙が立ち上る。
「仙は無敵じゃあない。官兵さんに取り囲まれて四方八方から切り刻まれりゃ、いかに夏夏であろうとも、簡単におっ死ぬ」
言って李玄は闇の中を警邏する騎兵の数を指折り数えた。
「厄介な官兵は一所に集める。俺が面倒をみよう」
だが──。
「問題は、あの門番2人だな。アイツらは手練だ」
内宅の門前に男が2人。どちらも筋骨隆々の武人で、揃って同じ背格好。1人は偃月刀、もう1人は斬馬刀を持っていた。
開明獣は言う。
「では、あの美味そうな門番は俺が殺ろう」
九つの首の内、勇ましい武人の顔が舌舐めずり。遅れて美女の顔がほほほと笑った。癩の顔はにやりと不気味に笑んで、虎の顔は目を爛々とさせ鼻の穴を膨らませている。
「ありゃあ双子だろ。顔も体もそっくりなら味も一緒か? 興味がある。それに人間は強ければ強いほど美味い。噛めば噛むほどに味が出る」
李玄は霊符を取り出す。
「数百年ぶりに霊符を書いた。天帝に召龍の赦しを乞う」
召龍とは文字通り龍を召すことである。もちろん本物の龍ではなく、この場合は気を練ってそのように形作ることを意味する。
「曹佾みたいに効率的な術じゃねえが、まあ、客寄せにはなるだろう。俺は派手さがウリだ」
開明獣が問う。
「兵に囲まれて無事でいられるか?」
「そん時ゃ拳で倒すさ。そっちの方が得意だ」
李玄は剣を持たないので、代わりに右手の人差し指と中指を揃えて伸ばし、霊符を挟んだ。剣指である。宝剣を模す。深く呼吸をすると霊符がごおと火をあげた。次いで子午訣を掐む。詠唱。
「急急如律令」
李玄の足元、大屋根の瓦と瓦の間から、白い、霧か雲がふわりと漂い始めた。次第にそれは半透明の龍となって、のそりと体を起こす。龍はばちばちと音を立てて雷を纏い、闇空に明滅した。口から白い煙を出しながら、苦しそうに舌を出し、のたうち回るかのようにぶんぶんと尾っぽを振っている。瓦が弾かれ雪崩こむように落ちてゆく。
李玄は竜の額に立ち、衙門を見下ろした。まばらに散る衛兵たちは各々足を止めて、何事かと空を見上げているようだった。
「好好好。久しぶりだがイカした龍が出せた」
そして李玄は一つの建物に狙いを定める。
「──さあて、まずは馬だな。移動手段は潰す」
龍は雷鳴を轟かせ厩舎に向かって急降下、建物を木っ端微塵に吹き飛ばした。土煙が高く上がって、遅れて瓦礫がばらばらと地に降り注いだ。
「な、なんだっ!」
「厩舎の方だ!!」
騎兵たちが一斉に厩舎へと駆けつけた。李玄の龍は土煙を孕んで体を大きくし、さらに激しく雷を纏う。騎兵の馬は閃光と雷鳴に狼狽するばかりで、厩舎に近づくのを怖がった。しまいに暴れ始めて、手綱を引いても言うことを聞いてくれない。
一方で衙門の最奥、内宅の門前、双子の衛兵は夜の叢雲が龍の光に青白く耀うのを見ている。
弟の景文が言う。
「厩舎の方か。地面から稲光が伸びている……?」
景文は様子を見に行こうとしたが、兄の景雄が偃月刀を伸ばしてそれを止めた。
「待て、景文。闇の中に何かが潜んでいる」
弟の景文は闇を眇めた。厩舎の方がぴかりと光った瞬間──、景文は闇の中に四足獣の輪郭を見た。
「デカいぞ……」
複雑な獣に思えた。見間違いでなければ尾っぽは複数あるようだったし、不思議なことに首も連なっていたように思える。官吏のように幞頭を乗せている男の首もあれば、美しい簪をさしている女の首もあったように見えた。
荒々しい息の音が闇の向こうから近づいて来て、景雄は武器を構えた。つうっと冷や汗が頬を伝った。
「地獄から夜叉か羅刹がやってきたかな」
「俺たち、地獄の使者に迎えられるほどのことをしたろうか」
「小夫人を迎えに来たのかもしれんぞ」
景文が武器を構える。
そして鋭い爪が土を叩く音が一回、二回と続いて──その獣は闇の中から現れた。
「……女!?」
兄の景雄が目を丸くして驚く。奇妙奇怪の獣の背に、銀髪の少女が乗っている。
その女は獣の背から身軽な感じで跳ぶと、景雄の肩に着地して、再び跳躍、門を跳び越えて内宅の庭に入ってしまった。
「しまった──!」
そして景雄は開明獣の前脚の一振りに弾き飛ばされ、固く閉ざされた門扉に体を打ちつけた。
夏は庭に降り立った。
小さな庭だった。中央に海棠の木が植えられていて、側に小池があった。海棠の花が咲き乱れていた。散った花びらが池を覆っていた。
外の騒ぎが尋常でないと思ったのだろう、侵入者の姿を認めると、婢女や丫鬟が朴刀や物干し竿を手にして、夏の前に立ちはだかった。
「退け」
女たちは手足を震わせて歯を食いしばり、緊張している様子だったが、退く様子がなかった。
「正房には用はないよ」
正房とは母屋のことで、正妻が住む。
女たちは一瞬、安堵の表情を浮かべて互いの顔を見合わせた。
「誰だっ!」
西廂房から威勢の良い男の声がして、夏はその方を見た。
「ええい、どけ! 女子供はどけ!」
体の大きい男が灯籠を片手に近づいてくる。目元の堀りは深く、髭があって、傷顔。伊蓮妮の記憶で見た軍漢に違いない。名前を確か儁乂とか言ったか……。
服は乱れていた。見るに、急いで単衣を羽織ったように思える。西廂房は側室の居所である。
「兵の身の上で知府の妾に手を出すとは、中々に豪胆」
儁乂はぎくりと顔を引き攣らせると、灯籠を前に突き出して、夏の顔を照らした。──拂菻人が復讐に来たかと思ったが、そのような顔つきではなかった。
「誰だ貴様っ。盗賊かっ。ここは天子の法を執り行う衙門なるぞ! 外の騒ぎは何だっ!」
言って腰に佩いた大仰な刀を威勢よく抜いてみせたが、夏がそれに慄かないと見るや、
「この俺を誰だと思っている。武芸では負けを知らず、七尺(約2m)の大男さえも打ち負かした、大刀の韋儁乂とは、この俺のことだ」
夏は手にしていた巻軸を広げる。
「おい、聞いているのか、卑しい女! あの光はなんだ! 爆竹か、花火かっ! 何が目的だっ! ここには貴様が求めるような宝物などないぞっ!」
そして儁乂はずいと寄って刀を振り上げた。
「この騒ぎ、1人で来たわけでもなかろう。何人いる? ──話したくなければ、それでいい。その首を掲げれば貴様の仲間も大人しくなるだろうからな」
夏は巻軸を読み上げた。
「略文。韋儁乂は天条を犯したと認め、太清道徳天尊の法に従い処斬とする」
刹那、何の突拍子もなく、突然に、儁乂の頭がごろりと地に落ちた。切断されたらしい首から血飛沫が高く上がって、温い血が雨のように降り注いだ。儁乂の体は刀を振り上げたまま動かない。まるで死んだことに気がついていないかのように固まっていた。
婢女や丫鬟がきゃあと悲鳴を上げた。腰を抜かして転ぶ者もいたし、勢い余って池に落ちた者もいた。
「──この命は天の権威に基づき、天道の法旨を奉じるものである」
夏は血を吹き出し続ける儁乂を見遣ることもなく、巻軸を読み上げながら廂房へと歩く。
「汝、私憤を以て善良なる人民を欺き、類族の別なるをして生霊を戮した」
開けっぱなしの戸から廂房の前室に踏み入れる。妾の世話役であろう婢女が夏に包丁を向けたが、近づけはせず、部屋の角で震えるばかりであった。
「だ、誰じゃっ! 誰か入ってきたのか!? 儁乂か!?」
奥の寝室から声がした。伊蓮妮の記憶で聞いた女の声だった。
「その数、少々に非ず。天理はこれを容れず」
夏は寝室に入る。甘い茉莉花の香りがしていた。
豪華な化粧台に美しい青銅の鏡。連なる大箪笥。見事な彫りの入った円卓の上に宝石を嵌め込んだ香炉と、宝飾品の入っているであろう漆箱とが置かれている。卓の下には虎の毛皮が敷かれていた。
薄絹の帷が降りた寝台があって、そこに人影が見える。
「儁乂ではないのか!? 誰かっ!! 狼藉者じゃっ。儁乂を呼び戻せっ! 誰かっ!」
「所業、朕みずからこれを見たり。朕みずからこれを聞きたり。よって諸司これを議さずして、ここに裁定する」
「来るなっ。来るなっ。誰じゃ、名を名乗れっ!」
夏は単刀で帷を切り裂いた。
帷の裏にいたのは、護身用の短剣を握りしめた、金の髪の女だった。瞳は赤く、肌は白く透き通っている。──伊蓮妮と同じ拂菻人であることは疑いようもなかった。
「判曰。 蘇菲雅・杜卡斯。形神倶滅に処す」
形神倶滅──即ち、死しても転生を許さず、魂を滅するということである。
「どうして、わっちの名を……」
とうに捨てた名だった。太国に来てからは、花街で与えられた瑶華の名を名乗っている。
「即時執行。欽此」
夏が巻軸を閉じた瞬間、天雷が廂房に落ちた。それは天井を突き破って、蘇菲雅の脳天に直撃、室内に稲妻が走って、帷や化粧台、箪笥が燃え上がる。
「瑶華……っ!」
初老の男が慌てた様子で部屋に入ってきた。身なりは良い。知府だろう。
顔の凡ゆる穴から血を流し、力無く座り込む蘇菲雅を見て、知府は目を丸くした。
「わっちは……ただ……。あなたさまのお側にいられなくなるのが……、怖くて……」
そして蘇菲雅は、そのまま、消え入るように、呼吸をやめてしまった。遅れてゆっくりと首を垂れた。抜けた歯がぼろぼろと血と一緒に流れ落ちた。




