法の外
夏は此れについて、このように整理する。
まず蘇菲雅・杜卡斯は拂菻人である。どのような経緯があって太国に辿り着いたのかは分からないが、最終的に行き着いたのは花街であった。そして知府の寵愛を受けて妾となり、その後は拂菻の女を召喚して処刑した。
なぜ拂菻の女を殺めたのかについては分からない。だが、彼女は死に際に言った。
『わっちは……ただ……。あなたさまのお側にいられなくなるのが……、怖くて……』
本心だろう。死を前にして紡がれる言葉にこそ真実が色濃く宿る。つまり彼女は知府を心から愛していた。
となると拂菻の女を殺めていた理由、併せて『金の髪』を恨んだ理由も見えてこよう。つまり、自分と同じ髪色の女が知府の前に現れたその時──、妾という立場が脅かされてしまう──、そのように考えたのではあるまいか。
妾なるものは、いつ切り捨てられるかもわからない脆い立場である。きっと花街にも何処ぞの役人の元妾なる人物がいたことだろう。
蘇菲雅はそうして落ちぶれた女たちを見て来た。だから脅威は予め排除しておく必要があった。
脆い立場を死守するには他者を蹴落とす他ない。概して運否天賦によって地位を手にした者は凶暴になる。その地位も運否天賦によって揺らぐことを知っているからだ。運の要素は脆さに比例する。
初めは予防策に過ぎなかったろうが、悪事を重ねる内に自身を正当化するための論理を手に入れ、拂菻人は太国を乱すという考えに固執していった……。
ちなみに儁乂なる軍漢は都頭──つまりは内宅を預かる警備隊長であったらしい。李玄の調べによれば、知府も彼を頼っていたようである。
蘇菲雅と儁乂は密事の関係にあったようだが、婢女らの中では公の秘密になっていたと考える。儁乂が出てきたばかりの廂房の中には婢女もいたので。
もしかしたら知府も薄々勘付いていたのではなかろうか。だが、儁乂を罰することは即ち蘇菲雅を罰せねばならぬということで、死罪はないが流刑は確実。彼女を失うことになる。いくら寵愛する妾といえど、天子の法に例外は作れない。
一方で儁乂は蘇菲雅に利用されていたに過ぎない。男は知府の妾と通じていることに優越感を覚えていたかもしれないが、女はそうではない。彼を駒にしか見ていないし、それが花街のやり方だった。体を餌に、男を手足のように操るのは間々あることだ──。
李玄は言う。
「客によく言われていたんだろうよ」
「何と?」
「『拂菻は騒擾の元』。自分が言われて嫌だったことを、伊蓮妮に繰り返したんだろうぜ」
三烏が地平線から飛び立った。光の筋が禿山の稜線から拡散して、朝靄を禁色に染める。李玄は地に突き立てた鉄杖の上に器用に立ち、眩しそうに朝日を見つめた。
「とにかく天誅は下った。これで伊蓮妮も浮かばれるだろう」
夏は大岩の上で寝転がりながら、淡い黎明の空を見上げていた。
「浮かない顔だな。何か気掛かりでも?」
「僕には分からないんだよ」
「分からない?」
夏は所在なさげに指を弄る。
「悲しくないんだ。慈しむということが分からないんだ」
続ける。
「僕は冷たいのだと思う。この瞬間『人間ならばどう思うだろう』と考えることは出来るけど、切実な思いは抱いていない。伊蓮妮が死んだことで悲しみや怒りを覚えるべきなんだろうけど、僕の中にはそれがない」
「だが、崑崙山の緱婉姈は蘇菲雅・杜卡斯に天誅を下した」
「法が働いただけだよ。自分の意思じゃない、機械仕掛けだ。米櫃に虫を見つけて、異物は取り除かなけりゃならないと思うだけで、そこに何か特別な思いを抱いたわけじゃない」
夏はひょこりと体を起こし、ぼりぼりと頭を掻く。
「やれやれ。こうして人を罰すると、僕は決まって無力感に苛まれる」
「ええ〜? 何でだよ、カッコいいぜ勧善懲悪」
「そうかしら。薄弱なんだよ、僕の全てが」
「ふうん。俺にゃよくわからんな、英雄の孤独ってやつぁ」
そして夏は背負袋を背負い込んで、猫は弓形になって伸びをした。
「行くのか?」
「うん。助かったよ、ありがとう」
「一件落着でさようならか。あっさりとしたもんだ。風来坊だねぇ、いなせだねぇ」
李玄は艾を巻いたのを咥えて火をつける。
「で。本気で扶桑に行くので?」
「うん。本当にあるかどうかは分からないけど」
「そう?」
「老君の法では説明できない土地だもの。実際に誰かが見たわけでもない。誰かが辿り着いたわけでもない。扶桑人がいるわけでもない。そもそも国なのか土地なのか、山なのか島なのかも分からない。理屈で言えば、東の果てには何も無いよ」
「でも老君はあると言った」
「老君だって時たま嘘をつく。おちゃめな人だからね。もし気になるなら、李玄も一緒に来るかい?」
夜明け前の湿った風が吹いた。李玄の体、その指先は、ほろほろと風に流されていった。
「生憎、時間切れだ。知ってて聞いたろう」
李玄の肉体は三日三晩程しか保てない。気を失った夏を助ける時に一度元の姿に戻ったから、合わせて丁度三日三晩。灰に戻る時が来た。
かつて李玄は昇仙の時に肉体を失った。その理由はよく分かっていない。
崑崙から戻った時、李玄の魂は灰の山に引き寄せられた。見知らぬ野っ原で堆く積もっていた。目の前の灰が李玄であると直感した。辺りの草が燻っていたことを考えれば、燃やされたのだろうが、不可思議だった。
よく見れば辺りには幾つかの廃墟があった。どれも酷く朽ちていて、もしかしたら、崑崙で遥か長い時を過ごしていたのかもしれない。何もかもが分からないし、その真実を調べようもなかった。とにかく李玄は昇仙し、その肉体は失われ、妻も子供も姿はなかった。廃墟から離れた山の斜面に、土饅頭が点々としていた。墓だった。
墓を作ったらしい乞食の老人が土饅頭の側に転がっていた。肋がひどく浮き出ている。そうして李玄は、餓死してまで心から他人を弔った老人の体を拝借することにした。
「思うに、老君は法の外を見せたかったのだろうよ」
「法の外?」
「そう。法の外ってのは、つまりは可能性だ。崑崙には無いものだろう?」
夏はうーんと唇に指を当てて考える。確かに、崑崙に可能性はない。全てが決められた法則の下に成り立つ世界だった。
「きっと東には、老君が言う通り、夏夏の空白を埋める何かがあるさ」
「だと良いけど」
夏は消えゆく李玄に背を向けて、東へと歩き出す。
李玄は老君の声真似をしながら、ふざけ気味に言った。
「回よ。まずは自分を好きになることじゃ。人間、自分を好きになって初めて一人前と言えよう。それが分からん内は、まだまだ赤ん坊じゃよ。ふぉっふぉっふぉっ」
「神仙なる金母元君を赤子とは強く出たな、李玄!」
夏は振り返って石を投げたが、それは李玄の体をすり抜けて、胸に穴をあけた。
「夏夏は赤子で神さまさ。人間の赤ちゃんだって、生まれた時は誰かにとっての神さまなんだ。そして成長するにつれて何をしたいか、何を為すべきかがわからなくなる。一緒だろ?」
夏は鼻でため息をついて、簡単に手を振った。別れの挨拶。
「雲か風のように大陸を流離って、夏夏の可能性を見つけるといい」
猫は欠伸をしながら夏の背後を着いて行く。石峰府では美味い料理が食べられなくて退屈だった。
「それにしても蘇菲雅の死の何と美しいことか。愛があっても鬼畜に堕ちるんだっ。鬼畜になって仙を夢見るんだっ! 崑崙では決して見ることのできない複雑な美しさが下界には存在しているっ」
李玄の声が掠れ始める。風に消えようとしている。
「夏夏も、そんな複雑な世界から昇仙したんだよ──」
声が聞こえなくなって、夏夏は内懐から伊蓮妮から貰った手紙を取り出した。読むのを忘れていたが、ふと、思い出した。
几帳面に折り畳まれたそれを開く。そこには、もし怪我が治りきらなかった時のための化膿止めの作り方と、それから猫の愛くるしかったことが書き記されていた。
そして、まさか夏を仙だとは認識していなかったとは思うが、不思議なことに、手紙は以下の一文で結ばれていた。
──あなたの天下泰平が弥栄でありますよう。




