仙の夢
伊蓮妮は小窓の簾を持ち上げ、揺れる輿から外を見た。
景色がゆっくりと流れてゆく。遠くに赤い禿山が見えた。おそらくここは、安済坊のある李家荘から東に進んで、二つの村を超えたところ……、だろう。
伊蓮妮はしばらく景色を懐かしんだ。青空に鳶が舞っていて、声を落とす。川は天烏の光を受けてきらきらと輝いている。そろそろ土地神を祀っているであろう小さな祠が見えてくるはずで──、あ、見えた。供物はない。誰も管理していないので。
まだ父が生きていた頃は、二人でこの街道を通って府城に向かった。祠の裏の坂を降りると湧水があって、そこで冷えた水を汲み、休憩を挟んでいたと思う。
府城には薬の材料を買いに行っていた。街は鉄売りばかりで薬舗は目立たないが、実は路地裏の目立たないところに幾つかの優良店があって、父は『この街が好きだ』とよく言っていた。
懐かしい景色をしばらく眺めてから、簾を降ろして目を閉じる。
──不安だ。
荘主に『知府の妾だなんて、これ以上に良いことはそうそうないのだぞっ!』と言われ、確かにそうだと思ったから話を受けたが、果たして自分に妾など務まるのだろうか。
そもそも妾とは何をするべきなのかも分からない。勿論まぐわうことが第一の目的だということは理解している。だが、そうする以外には何をすれば良いのだろうか。たとえば朝と昼はどのように過ごしたらよいのか。荘主は『のほほんとしておればよい』などと言ってへふへふと気楽に笑っていたが、病人の世話で毎日を忙しく過ごしている伊蓮妮には、なんとも想像がつきにくかった。
輿は府城に入ってから、まずは知府の私邸に向かうらしい。そこで簡単な儀礼があって、正妻と使用人に挨拶をする……、とのことである。さて、どのように挨拶をしたらよいのだろう。『お初に御目文字仕ります』とだけ言えばよいのか。本来であれば『いやぁ、これからばりばりと働きまする』と言ってしまいたいところだが、妾にそのようなことを求められてはいないだろうし、困った。働くことばかりで生きてきたので。
そして輿は府城の門を潜り街へと入る。
大街を行く。かつてと然して変わらない風景、慌ただしい街。荷を背負う人々が行き交い、土煙が舞う。どこかで何らかの接触があったのか、馬が嘶いて、誰かの怒鳴り声が続いた。やんややんやと囃し立てる声も続く。
伊蓮妮は父が生きていた頃に帰りたいと思った。また父と一緒に、この街を気儘に歩いてみたい。妾となったらそれも叶わないのだろうか……。
輿は大きな橋を渡って衙門へと向かった。小窓から顔を出し、大屋根の大門を見遣る。扁額には『石峰府』とあった。
列は大門の前で止まった。ややあって門が開くと、何人かの下役人が出てきて、あまり納得がいってなさそうに首を傾げなら、一言二言ごにょごにょと会話をすると、下僕が持っていたであろう硝子の杯の入った匣を持っていってしまった。
その後、輿は甬道を避けて衙門内を進む。儀門──つまり大堂へと繋がる第二の門は通らずに西に折れて、忍ぶように脇道を通って奥へと進んだ。
(私邸に向かうと聞いていたけれど、予定が変わったのだろうか。それとも妾などは役人がお働きになる場所へは踏み入れられないのかな)
軒の深い建物が並ぶ区画に入った。道は狭く、木々に囲まれて、いずれの建物も古びている。窓は明かり取り程度にしかなく、厚そうな土壁にはひびも入っていた。
「降りなさい」
輿がゆっくりと下ろされる。
(……ここで?)
伊蓮妮は身を屈めて輿から出て、建物を見る。
(倉庫? 妾などはこういう場所で暮らせということなのだろうか)
木戸の前に大きな男が立っていた。軍服姿だった。肌は浅黒く、髭を生やし、傷顔である。大仰な環首刀を腰に佩いて、冷たい目で伊蓮妮を見ていた。
(軍中の人が出迎えてくれた)
挨拶をしようすると、その軍人は、
「来い」
と固く言って伊蓮妮に近づき、腕をぐいっと引っ張った。
「っ……!」
驚いて悲鳴を上げそうになった。だが、妾とはこうした待遇なのだろうと考えて、伊蓮妮は黙った。
下僕も、婢女も、管家さえも黙っていた。振り返ると、誰もがどこか申し訳なさそうに顔を背けた。伊蓮妮を直視しなかった。少し考えてみたが、その理由はわからなかった。
分厚い木戸が開かれて、軍漢と伊蓮妮は建物の中に入った。中では無数の蝋燭が灯っていた。むわりと暑い。
土と鉄の臭いがしている。灯りに照らされているのは無数の武器で、それぞれ刃が火を映して赤く染まっていた。槍や戟が並んでいる。建物内は架で仕切られて、迷宮のようだった。どうやらここは武器庫らしい。
立てかけられた武器と武器の間を進む。奥へ奥へと進む。勢いよく腕を引っ張りながら進むから足がもつれそうになるが、軍漢は止まってはくれない。半ば引きずられる形になろうとも、早く立ち上がれと言わんばかりに、ぐいと腕を引っ張られた。
武器庫の最奥はがらんと空いていて、紅の珠簾が下ろされていた。
簾の向こうに人影が見える。女のように思えた。
「今日は寒いのう。ひどく寒い。もっと灯りをともさねばならぬ」
鈴を転がすような声がする。珠簾の奥には榻があって、そこに女は寝そべっているらしい。
軍漢が『座れ』と強く言って、伊蓮妮の頭を強く押さえつけた。それで折り畳まれるように跪く。
「儁乂よ。その娘の髪は何色じゃ?」
「金に御座います」
「美しい、美しい、金の髪か」
「はい、そうに御座います」
「どう思う、儁乂」
「金の髪の人間は人に非ず。太国に足を踏み入れるべき資格は御座いませぬ」
伊蓮妮は目を見開いて、小さく顔を上げた。
「そうか、そうか。わっちもそう思う。金の髪は良くない」
髪のことで蔑まれたのは初めてだったので、伊蓮妮は困惑した。
「なっ……。かっ、髪っ。髪でございますか……?」
色々と考えた。
髪? なぜ?
髪がなにかマズかったのだろうか。
妾に相応しくない髪なのだろうか。
いや、それは方便であって、許されぬことをしてしまったのではないか?
たとえば、知らぬうちに悪人を治してしまったことがあったのではないか。
それか、輿に入るまでに何か失礼を働いてしまっていたのではないか。
あらゆる可能性を考えた。
「そう。金の髪は良くない」
「なっ、何故、金の髪は良くないので……?」
「え? 何故? そうなぁ? いざ問われると答えに困るのう……」
考えているのだろう、少しの沈黙があって、
「──わっちは良いことをして仙になるのじゃ」
仙になる……?
「仙になれば、わっちは誰に対しても首を垂れずに済むであろ?」
女は続ける。
「つまり……、なんと言うか……、これは何となくなのだけれどのう、お前のような異民族は天下泰平を乱そう? 商人として国に押し寄せて、人民に受け入れられているのを良いことに、勝手気儘な振る舞いも増えておろ? すると、つまりは、いずれ太国の常識や太国の美しきを平らげてしまうに違いない。そのように思っておるのじゃ、わっちは。まあ、その、あんまり確証はないのだけれど……。何となくそんな気がしているのだなぁ……。まあ何でも良い。とにかくわっちは世のために良いことをしたいのじゃ」
伊蓮妮は目を瞬かせた。そのようなことを言われたのは初めてで、何と答えたら良いかわからなかった。呆然としてしまって、否定するためのきっかけさえも掴み損ねた。
「うーん、追放か、或いは処刑か……。儁乂はどちらが良い?」
ぞっとした。途端に土床から冷気が迫り上がってくるかのような感覚があって、視界がゆっくりと右回りに回転してゆく。耳鳴りがして体も震えた。
──処刑? まさか私は、処刑される可能性があるのか?
「処刑が宜かろうと思いまする。ここに太国の威信を見せましょう」
そして女は無邪気に言う。
「そうさね、そうさねっ。西方の女はぽこぽこと子を産んで、金の髪を増やすからのっ!」
頭の中が焦りに白けてゆく。それでも何かを喋ろうとした。ぱくぱくと口を開け閉めしながら、小さな声で、辛うじて言葉を絞り出す。
「そ、そんな……。わっ、私はっ。何をしたわけでは……!」
珠簾から細く白い手がそっと出てきて、チラリと目が覗いた。赤い目をしていた。
「ああ、なんと美しい髪なこと……」
「髪、髪が良くないのですかっ。草で髪を染めますから……! どうか、命だけはっ」
「顔も良いではないか! ああ、恐ろしや恐ろしや……」
伊蓮妮は土を顔に塗ろうとした。土床を掴もうとして爪が捲れた。
「わ、私っ、何でもやりますからっ、国のために働きますからっ。どうか……、お命だけは……」
「え? 別に何をやらんでもよい。何かを求めておるとかもない。わっちは金の髪が嫌いじゃ。ただ何となく、金の髪の女がいると、ちょいといやな気持ちなる。楽しいはずの日常が翳る気がするのじゃ」
背後で鞘走りの音がした。
「やってよいぞ、儁乂。ほれ、ほれ。早う、早う。もう問答とかしとうない。面倒じゃろ。そんな細かい話じゃないのに、説明とか出来ん」
「ま、待って下さい、私ほんとうに、何もしていない──」
突如として伊蓮妮の視界は揺れた。景色がぐわんと傾いて競り上がり、頬に衝撃があって、視界が跳ねた。何が起きたかはわからなかったけれど、頬が床についているのだろうとは思って──。即ち、転んだということなのだろうか……。起き上がれない。まさか、首を落とされたのか……。それから、すぐに何も考えられなくなって──。
意識は闇の中に放り込まれた。不思議と痛みはなかった。
それから夏と李玄は雨降る正子の頃に衙門に忍び込んだ。そして厩舎の裏にあった糞坑の中から伊蓮妮の首を釣り上げた。
首を水で綺麗に洗ってやり、矯めつ眇めつ、夏はそれを見る。顔の筋肉は垂れて弛んで、初めて会った時のような華やかさは残っていなかった。
「初めから妾にするつもりなんかなかったんだろう。金の髪の女を誘き寄せて、殺すことが目的だった」
「拂菻を憎んでるのか?」
「さあ、どうだろう。そんなような口ぶりだったけど」
李玄はふうんと言って、
「軍人を顎で使えるような女は知府の親族か妾くらいのもんだろう。ざっと調べた感じ、知府には正妻が一人と妾が一人。親族には母親が一人で女の兄弟はいない。女の声が年寄りのものじゃなかったて言うんなら、正妻か妾のどっちかだろうな」
「自分のことをわっちと言っていた」
主に遊女が使う一人称である。
「んじゃ妾か」
李玄はぐんと高く跳んで、大堂の屋根に着地する。四十余尺(約10m)の跳躍。次いで目を細めて内宅──つまり衙門内最奥にある知府の邸宅を見遣った。門の前に衛兵が2人。それから衙門の中をうろうろとする見張りの騎兵が何人かいる。
「どうする、夏夏。天誅を下すか、或いは見逃すか」
夏も同様に高く跳んで大堂の屋根に着地する。猫も一緒だった。
「いたずらに人の命を奪う者に仙の夢を語る資格があると思う?」
「それでは」
「天雷を以て世を正すべし」
夏は冷たく、機械的に言った。
「崑崙山の緱婉姈が命じる。李鉄拐はこれより金母元君の働きを扶翼せよ」
李玄は叉手し、頭を下げた。
「拝承仕る」
そして猫は自ずから開明獣に戻った。




