回の単刀
三つの太陽が天に輝く。
軽風、空を渡る。天高く湧いた羊雲は南風に押し流されている。空の青は群青、乾いて透き通る。
夏と李玄は風を顔に受けて街をゆく。夏は猫を肩に乗せ、李玄は抜け殻──つまり老人の亡骸を背負っていた。
件の古董舗の前で止まる。既に他の店は開いているが、その店の戸だけはぴたりと閉ざされていた。軒から通りに張り出した幌の下にも商品は並べられていない。
押してみれば木戸が動く。閂はかかっていなかった。
中に入って、まず乳香の残り香がした。遅れて、深まった所にある異臭が鼻をつく。
「鉄臭い」
部屋をぐるりと囲んだ棚が寂しい。昨日は所狭しと商品が並んでいたはずだ。残っているのは地味な古銅器や土器くらいで、伊蓮妮の杯も消えている。
「盗まれたのかな」
「残ったお宝の方が良い値がつきそうに見えるが──、まあ、無頼にゃ分からんか」
言って李玄は、店の奥の扉を蹴り開けた。住居部分だった。
狭い室内。小太りの店主が寝台で寝ている。李玄が素軽い感じで近寄り、そっと覗き込むと、
「胸を一突き」
べっと舌を出して夏に振り返った。
古董舗の外に出て、雑踏に声を聞く。
「なあ、聞いたか。衙門で面白いもんが見れるらしい」
「なんだ、面白いものって」
「死体が吊り下がってるんだとよ」
二人は人の流れる方へと向かった。人々の頬は好奇心に赤らんで、遠くから来たであろう農民たちもわくわくとして駆け足になっていた。遠い禿山を撫でて吹く春風が、野次馬たちの背中を押して急かしている。
衙門の大門には異様な人だかりが出来ていた。猫は夏の頭の上にまで登って目を眇めるが、猫の瞳では静止しているものは捉えづらい。大門の青瓦と石峰府と書かれているであろう扁額が、ぼやけて見えるばかりであった。
「死体がそんなに珍しいかね。ちょっと街道を歩きゃあ傍にボテっと落ちてるじゃねえか。しゃあねえ、押し通るか」
李玄が人を押し除けて道を作ってゆく。
「ちょいとごめんよ〜、はいは〜い、通るよ〜。この変態お爺が死ぬ前に死体をみたいみたいって言って聞かねえんだ、ちょいと見せてやってくんねえか〜」
近づくにつれて大門の様子が徐々に分かる。軒下に何人かの男が吊るされているようだった。
そして扁額を見上げられる程まで近づいた時、吊るされた男たちの正体が分かった。
夏は小さく呟く。
「乞食」
仲達に陳大郎、子安、孫四郎、それから維清。安済坊で出会った乞食たちだった。
「李玄、これをどう見る」
李玄はうーむと考えて、
「たとえば、俺たちと同じようにどこぞの古董舗で硝子の杯を見つけた。『こいつは一体どういう事だっ!』と探っちまったら、このザマ──、ってとこかな」
びゅうと風が吹いて、陳大郎の懐から一枚の紙がひらりと落ちた。夏はそっとそれを拾った。
「なんと書いてある?」
「『南境第一の侠客にお会いでき、光栄でありました』」
南部一の侠客。よく陳大郎が嘯いていたことだった。伊蓮妮は本気にしていたのかも知れない。
李玄は片眉を上げて陳大郎を見上げる。
「よお、南部一の侠客。相手は強敵だったか?」
陳大郎の体は他の亡骸よりも傷んでいた。胸や肩、脛に刀疵があって、背中には幾つもの刺し傷があった。多勢に無勢、囲まれて斬られたように思える。
「最期まで戦ったようだな、兄弟。アンタ確かに南部一の侠客だ」
大門が開き、下役人たちが現れた。その内の一人がじゃあんじゃあんと銅鑼を鳴らし、声を上げる。
「ええい、群がるなっ!! 群がるなっ!! 見せ物じゃないぞっ!! 衙門に用がある人間以外はとっとと失せろっ!!」
それから夏と李玄は街を出て、ひたすらに荒地を行った。街道沿いには幾つかの郊村や畑があるが、ひとたび街道から離れれば四方数里に渡って荒地が広がっていた。
白や紫、黄色の野菊、茅萱の大地だった。風が吹くと茅萱の白い穂が何処までも波打った。かつては田畑だったのであろうか、畝らしきものが所々にあって歩きにくかった。
夏は唐突に足を止めた。そして周囲を見渡す。禿山と雲以外に陽を遮るものはなく、つまりは日当たり良好。茶色くなった冬の枯れ茅萱までもが十分に残っている。
「うん。ちょうどここがいい。僕だったらこういうところに決める」
そして夏はどっぷりとした岩の上で胡座をかいた。李玄は器用にも地面に突き刺した鉄杖の上に直立し、艾を巻いたのを燃して口に咥え、ぷかぷかと煙を吐き出している。どこかで孤独な黄鳥が歌っている。
猫は茅萱の迷宮を行く。地面に顔を近づけ、くんくんと鼻を利かせ、ぴんと耳を立てる。咽せ返るような土と草の臭いの中から、嗅ぎ覚えのあるにおいを探し出そうとしていた。
一杯の茶を飲むほどの時が経ったろうか、猫は遠いところに羽音を聞いて、にゃあと声を上げた。それで夏は岩から飛び降り、李玄は鉄杖から飛び降りる。
猫の鳴くところへ行く。仰向けの胴が落ちていた。夏が近くに立つと、地面が揺れてか、死体に集っていた蝿がわあと音を立てて一斉に飛び出す。首があって然るべき部分は、切った枯れ茅萱で隠されていた。
猫は亡骸の周囲をぐるりと一周、残り香からして伊蓮妮だろうと、目で訴えた。
李玄は艾の煙を吐き出して言う。
「ひでぇことするもんだな。何が目的なんだ? まさか硝子の杯を奪いたかっただけ、ってわけでもねえだろ?」
次いで李玄は子午訣──右手で輪を作り、そこに左手の親指を通す印──を軽く結んで、『福生無量天尊』と唱えた。亡骸の股座を覗き、そこに枯れ茅萱を一本、すうっと挿入。上手く奥まで入らない。
「処女だ。お楽しみのあとに殺したわけでもねえようだぜ」
夏は亡骸に触れた。鞣し皮のように冷たい皮膚に傷はなく、実に綺麗だった。ただ、単に、首を斬り落とされただけのように見える。身体髪膚を傷つけないよう、気遣った風にも思える。まるで処刑だ。
「輿を持ってきたのが無頼の類だったとか?」
「それはないよ。服装だけじゃなく、所作もしゃんとしていた。まず間違いなく府城の人間だ」
「だよなぁ」
夏は一帯を探った。
離れたところ、野菊が群生して咲き乱れている下に腐乱した死体があった。その付近にも白骨を見つけることができた。いずれも頭部は見つからなかった。
李玄は眉根を寄せて腐乱した体の、その股座をじいと見る。
「腐っててよく分からんが、少なくとも体毛は黒くねぇな」
「拂菻人かな」
夏は周囲に誰もいないことを確認して単刀を抜いた。
「ここなら使えるだろう」
右手で眼前に刀を執り、左手の指で訣を掐む。親指と中指薬指を付けて、人差し指、小指はピンと伸ばす。王訣。崑崙に出入りする者のみに使用を許される特殊な印で、ある一定の術を発動させる際に掐む。
単刀が仄かな白光を放ったのを認めて、伊蓮妮の亡骸にそれを突き立てた。
「急急如律令」
唱えた瞬間、天高い鰯雲は黒ずんで膨らみ、忽ち三烏を隠した。ぽつり、ぽつりと雨が降り、ぴかりと空が光る。地響きにも似た雷鳴、湿った風が吹いて原が波打つ。
胡座を組んでその場に座る。単刀の刃が雨に湿って鏡となり、夏の姿を写した。
亡骸に残った残滓が単刀の中の夏に乗り移る。髪の色は金となり、顔つきも西方の人間らしく目鼻立ちが冴えて、瞳も海の色に凪ぐ。
──夏は単刀で死人の過去を見ようとしていた。
単刀の本来の役割は人を切ることでも獣を屠ることでもない。単刀は、その人間が仙に値するかどうかを知るために使う宝具である。
「そうやって俺の過去も覗いたのか?」
「うん。覗くというよりは体験するのに近いけれど」
単刀の中の伊蓮妮は、夏の目をじっと見て、涙を流していた。
「僕の中には凡ゆる仙の人生が入っている」
「なるほど。元剣客も元将軍の人生もアンタの中か。それが強さの秘訣ってわけね」
「ズルをしているみたいで申し訳ないね」
「それで、夏夏は伊蓮妮になれるのかい?」
夏は伊蓮妮の青い瞳に意識を預ける。思考が分裂して、自分の体から離れて行くのを感じる。この魂が吸われてゆく感覚は一向に慣れない。
自らの考えも手足の感覚も曖昧になり、やがて日向の薄氷のように、一瞬のうちに意識は溶け出して、夏は名前のない世界に旅立った。




