5. 銀貨で買えないものの値段
中休みの朝、店に戻る。
カルデン機巧修理店。土間に万力、壁に工具、天井の梁から吊るした導脈の束。うちの飯の種は、同じ鋼騎士でも貴族の儀典機ではなく、こういう払い下げの働き者たちである。隅には預かり物が並ぶ。荷役機の指、火消し機の継手、井戸掘り機の肘当て。油と鉄と、少しの松脂の匂い。この匂いの中で俺は育った。
帳場の奥の棚には祖父の遺影と、その横に、何も掛かっていない釘が一本ある。技師の章が、十五年前まで掛かっていた釘である。
朝のうちに、梯子組の若い衆が入れ替わり顔を出した。修理の用ではない。首席サマの後席はどんな按配だと冷やかしに来て、茶だけ飲んで帰るのである。下町の噂は火より速い。祖父の代からそうだった。
昼前、黒塗りの馬車が停まる。
降りてきた白髪の老人は、アイゼンガルテン家の家令だと名乗る。老人は上がり口に布を敷き、その上に革の袋を置いた。中身を検めるまでもない。銀貨の、重く湿った音である。
「五十枚ございます。――連成課目の指名を、ご辞退いただきたい」
「理由を伺っても」
「家格に釣り合わぬ指名は、お嬢様の醜聞となりましょう。旦那様は、それを案じておられる」
醜聞。あの指名の、どこがだ。
腹の底が熱くなったが、老人の物言いに毒がないことも分かる。この人は役目で来ている。値切りの客と同じで、怒鳴る相手を間違えてはいけない。
俺は袋を、布ごと老人のほうへ押し返した。
「後席は、騎手が選ぶものです。それが俺たちの筋で、辞退は、選んだ騎手の目が節穴だったと言うのと同じことになる。……お嬢様の目は、節穴ではありませんでした」
「銀貨が、足りませぬか」
「銀貨で買えないものを、売れと言われても困ります」
老人はしばらく俺の顔を眺め、それから袋を仕舞い、深くはない礼をして帰っていった。敷いた布だけが、上がり口に残っている。畳んで返しに行く先を、俺はまだ知らない。
馬車の扉が閉まる寸前、老人は一度だけ振り返った。
「――お若いの。その筋とやら、お忘れなきよう」
脅しとも、励ましともつかない声である。侯爵家の人間は、どうにも読みづらい。
入れ替わりに、隣で聞き耳を立てていた梯子組が雪崩れ込んでくる。
「聞いたか、いまの啖呵」
「うちの坊に銀貨五十枚とは、安く見られたもんだ」
「祝いだ祝いだ、酒を持て」
「中休みだ。呑まん」
親方のヤンだけが笑わずに、俺の肩を分厚い手で一つ叩いた。それで十分である。
昼下がりには、ついでだと言う親方に引っ張られ、組の車庫で六号機の膝に油を差した。梯子座によじ登ると、下町の屋根が一望できる。継ぎの当たった瓦、物干しの旗、路地を駆ける子供。油差しの注ぎ口が、かた、かた、と関節の奥で小さく鳴る。祖父に教わった通り、差しては歩かせ、歩かせては聴く。六号機の膝の音が澄んでいくにつれ、胸の内のざわつきまで、一緒に整っていくようだった。
夕暮れどき、外套を目深に被った客が、戸口に立つ。
フードの下から、冬の湖の色が覗いた。供も連れず、彼女はそこにいる。
「……勝手に、来ました。試験場の外のあなたを、一度も知らないままなのが、急に不安になって」
欠けた茶碗で茶を出す。侯爵家の食器がどんなものか知らないが、彼女は両手で茶碗を包み、しばらく湯気だけを見ている。
「この店は、預かり物の一つずつに、名札が付いているのですね」
「壊れて来た日と、痛いところと、持ち主の名です。機体は喋りませんから、札に喋らせます」
「……いい店。とても、いい店です」
褒め言葉に、社交の硬さがない。それから彼女は土間を見回す。万力を見て、導脈の束を見て、預かり物の肘当てを見て、帳場の棚の前で、足が止まった。
視線の先には、聴診棒がある。
「……その道具を、知っています」
「祖父の形見です」
「やはり」
彼女は小さく息を吐き、言葉を探すように黙る。
「母の機体に、同じ道具を使う人がいたと……聞いて、育ちました。その話は、いつか。きちんと、お話しします」
「急がなくていい。機体の癖より深い話は、脈が揃ってからで」
彼女は俺を見て、それから、笑った。指名式でも整備場でも見たことのない、年相応の顔である。油の匂いの中で、あの姿勢のいい背中が、ほんの少しだけ緩んでいる。
――胸の奥で、何かが小さく音を立てた。機体なら聴診棒を当てるところだが、生憎、自分の胸には当てられない。
翌朝、本番の日が来た。
査定路の整備場で、輸送台車から降りた十三番が、最初の一歩を踏む。その音を聞いた瞬間、聴診棒を出すより先に、背中が冷える。
「……止まってくれ。腰の音が、違う」
◇
手帳の余白より 夏初月六日
供を連れず、下町へ行きました。とがめる人がいれば受けて立つつもりでしたのに、あの店の油の匂いは、覚悟ごとわたくしを柔らかくしてしまうのです。帳場の棚に、爺やの道具がありました。形見という言葉で、十五年がひと繋がりになる。言うべきことの半分も言えないまま、茶碗の茶だけ飲み干して帰る臆病者を、お母様は笑うでしょうか。家令が昼に外へ出たことは、帳面で知っています。あの人は、そのことをわたくしに一言も言いません。言わない優しさは、あなたの手帳にも出てくる、あの人たちの流儀です。




