4. 規格の人と、脈の人
練習走二日目の朝、十一番機の脇に、点検表の綴りを抱えた受験者が立っていた。
癖のない発音に、埃一つない作業着。魔導学院首席、エミール・ギルドナー。工廠に機体を納める大商会の三男だと、控えの間の噂で聞いている。彼の十一番機は磨き抜かれ、工具は寸分の狂いなく寸法順に並べられていた。鋼騎士の扱いとして、これも一つの正解である。美しい仕事だ。それは認めるほかない。
「昨日の走りを拝見しました、後席の方。泥濘の立て直し、見事です。伺いたい。右脚の圧を先に開けた根拠は、何ですか」
「音と、足の裏です」
「数値は」
「ありません」
彼は綴りを一度閉じ、はっきりと言った。
「再現性がない。属人の勘です。あなたの手が優れているほど、あなたの死と共に技術は消える。職人の勘は、職人が死ねば消えます。規格は残る。わたくしは、そちら側を作りたい」
悪意のない棘ほど、深く刺さるものはない。しかも半分は、まったくの正論である。
「その通りだと思います」
「……認めるのですか」
「規格の表は、いいものです。うちの店にも貼ってある。ただ、表は作られた日から古び始めます。機体は今日も擦り減る。表にまだ載っていない持病を、誰かが聴かないといけない。俺は、そちら側です」
エミールは眼鏡の奥で瞬きを一つして、綴りを抱え直した。
「議論は、本番の結果で」
「ええ。お互い、いい走りを」
彼は一礼して十一番機へ戻っていく。その背中に嫌味はなく、ただ急いでいた。ああいう男の作る表なら、うちの壁に貼ってもいい。そう思わせる背中である。
二日目の走りは、初日より二割詰めた。彼女の指示の言葉が減っていく。右、と言われる前に右の圧が立ち、詰める、と言う前に歩幅が詰まる。査定路の端で見ていた学院の教官が、首を捻って何かを書き留めていた。複座というのは、こういう機械なのだ。二人で一つの重心を運ぶ。言葉が減るほど、速くなる。
夕刻、審判部に届けを出し、夜間整備の許可札を受けた。連成の本番は明後日。脈飛びの応急は、あくまで応急である。人を乗せて全力で走る前に、根治まで持っていく。
許可札は木の板で、審判部の焼き印と刻限が入っている。規程の国の、規程の道具である。下町なら親方の一声で済む話だが、ここでは板が一枚要る。どちらがいいとも言えない。板は、親方が死んでも残るからだ。
灯りの下で、導脈の継手を緩める。編み管を外して光に透かすと、圧の通り道に黒い粒の澱が沈んでいるのが見えた。十五年ぶんの疲れである。洗い油を通し、通し棒でさらう。油の面に浮いては沈む澱の粒を、俺は一つずつ数えるように見送った。
管を戻し、締め歌で締める。ひとつ仮締め、ふたつで半目、みっつ泣くまで、よっつで黙る。
「その歌は、下町の歌ですか」
振り向くと、彼女が灯りの縁に立っていた。練習走のあと、居残っていたらしい。
「締めの拍を覚える歌です。歌の通りに締めれば、締めすぎも緩みもない。歌は道具箱に入りませんが、盗まれもしません」
「わたくしにも、手伝えることは」
「では、そこの圧栓を。開け閉めの感触に、引っかかりがないか見てください」
彼女は肯き、操縦手袋を外した。灯りの下に出てきた手のひらには、操縦桿の当たる場所に、厚い皮ができている。
「……剣だこならぬ、桿だこですね」
「操縦桿は、素手で握る主義です。手袋は、嘘をつきますから」
侯爵令嬢の手に、俺たち職人と同じ場所の皮がある。その事実は、家格だの馬の骨だのという昼間の言葉を、静かに黙らせる重さをしている。
歌の意味を、彼女は一度で覚えた。よっつで黙る、と小さく口の中で繰り返しながら、圧栓の感触を一本ずつ確かめている。誰の癖だろう、確かめ終えた栓の頭を、指先でひとつ撫でるのだ。機体への敬意は、手つきに出る。この人のそれは、生まれつきではなく、誰かから受け継いだ形に見える。
圧栓の検めを終えたころ、整備場の外からよく通る胴間声が飛んできた。
「坊ぉ! いるかァ!」
火消し梯子組の親方、ヤンである。試験場まで何の用だと戸を開けると、親方は妙な顔で、親指をぐいと背後へ倒す。
「店に帰るなとは言わん。だがな、坊。侯爵家の使いが、店の前に馬車を停めとるぞ」
◇
手帳の余白より 夏初月五日
桿だこを、見られました。社交の席なら手袋の下に隠すものを、灯りの下へ自分から差し出して、恥ずかしいと思わない自分に驚いています。あの整備場の灯りは、不思議な色です。家名も席次も溶かして、手と手だけにしてしまう。締め歌というものを、初めて聞きました。歌で機体を守るなんて、お母様、あなたの手帳の爺やも、きっと同じ歌を歌ったのでしょう。……父の馬車が、街に出ているそうです。嫌な予感ばかり、当たらなければいいのですが。




