3. 両席、繋がりました
練習走の朝は、よく晴れた。
査定路の脇の整備場で、十三番が朝日を浴びている。鋼騎士という機械は、朝の光の中がいちばん大きく見える。錆も鋳肌も昨日のままだが、脈は整った。あとは、人が乗るだけである。
「前席、乗ります」
彼女は操機服の裾を払い、胸郭の縁に手を掛けた。前席は半ば立ったままの姿勢で、鋼の胸の内に収まる造りである。踏み桟を三つ、迷いなく登る足取りで、この人が机上の首席でないことが知れた。
俺は背中側へ回り、背嚢の蓋を開ける。魔晶炉と調圧盤を背負う後席は、機体の背中に沈み込む格好だ。革帯を締め、肩当てを合わせる。目の前には調圧盤――右腕、左腕、右脚、左脚、胴、炉戻し。六本の圧栓が、鈍く油を光らせている。
伝声管の栓を差し込むと、こつ、と骨に響く音がした。
「聞こえますか、後席」
「聞こえます。圧路、繋ぎます」
連結の環を回す。圧が通い、機体がひとつ、深く息を吸う。
「前席、フレデリカ・アイゼンガルテン」
「後席、ニクラス・カルデン」
「――両席、繋がりました」
唱和が、鋼の胴の中で重なる。古式の複座機だけに残る、始まりの儀式である。
後席に、外を見る窓はない。あるのは計器と、圧の脈と、伝声管の声だけだ。目を使わない席である。その分、機体のすべてが音になって流れ込んでくる。炉の唸り、継手の軋み、導脈を圧が走る、衣擦れに似た音。俺にとっては、店の土間より落ち着く景色である。
点火。青い火色が揺れ、橙に落ち着く。圧、二分、四分、六分。関節の遊びをひと回し。手順のひとつごとに、俺は声に出し、彼女が短く声を返す。装甲の外で排圧の抜ける、絹を裂くような音がする。露に濡れた鋼の匂いと油の焦げる匂いが、風抜きの隙間から流れ込んできた。
「――鋼騎士、起きます」
一トンの鋼が立ち上がる。膝が伸び、腰が据わり、地面が遠くなる。足裏の圧が装甲を伝って背骨に届き、背中の炉は規則正しく脈を打っている。いい脈だ。三十年選手の、目覚めの脈である。
泥濘路に入った。
驚いたのは、着地のたびに膝へ来る衝撃が、丸いことだ。並の騎手は、降ろした足を機体の自重に任せて落とす。彼女は違う。最後のひと呼吸まで、自分の手で膝を送っている。機体を労わる癖。教本には載っていない、摩耗の偏らない機体を持つ騎手だけの手つきである。
――この人は、機体に敬意を払う側の人だ。
三度目の水音の上で、右足が滑る。
滑るより先に、耳が知らせてくれた。着地の音がひと粘り、湿ったのだ。俺は右脚の圧栓を半分開けている。流れた足の下に、圧の受けが先回りで立つ。機体はわずかに沈み、踏みとどまり、何事もなかったように次の一歩を出した。
伝声管の向こうで、息一つぶんの沈黙がある。
「……いまのは、後席が?」
「路面が先に教えてくれます。雨上がりの泥は、火消しの出動で慣れていますから」
「そう。……そうですか」
声が、少し笑っている。装甲越しの声は不思議なもので、耳ではなく背骨に響く。距離にすれば鋼板一枚、世界で一番近い他人である。
午前の後半は、俵束を試しに担いだ。百二十キロが肩に乗る瞬間、機体の重心が半歩ぶん前へ逃げる。俺は胴の圧を厚くし、彼女は歩幅を半分に詰める。示し合わせたわけでもないのに、修正が同じ拍で入った。
「後席。いまの、示し合わせました?」
「いいえ。機体が同じことを、前と後ろに言っただけです」
彼女がまた笑う。笑い声は伝声管の中で小さく反響して、俺の背骨を二度くすぐる。
階段の登り降りも試した。降りが難しい。一段ごとに一トンの重みが膝へ落ちる。彼女は段の縁で半拍待ち、俺はその半拍で受けの圧を作る。三段目からは、待ち合わせが要らなくなった。機体の中で呼吸が揃っていくのは、職人が二人で一本の梁を担ぐときの感覚に似ている。
午前の走り込みを終えて機体を停めたとき、彼女がぽつりと言う。
「機体の中で、初めて怖くありませんでした」
首席が、怖い。その言葉の据わりの悪さを、俺は問い返さなかった。人の癖に踏み込むのは、機体の癖を聴いてからでいい。
ただ、胸の奥で何かが静かに疼いた。この人の「怖い」は、たぶん俵束より重い。いつか機体の癖を聴き終えたら、その重さも聴かせてもらう。後席とは、そういう席だと思うことにした。
「――鋼騎士、寝かせます」
圧を抜き、火を落とす。排圧の霧が名残のように流れ、十三番は静かに膝を折る。
片付けを終えた整備場の門の外に、見慣れない馬車が停まっている。黒塗りの扉に、鉄の格子と薔薇を組んだ紋章。彼女の目の色が、すっと冬に戻るのが分かった。
◇
手帳の余白より 夏初月四日
六つの年から、機体の中はわたくしにとって寒い場所でした。理由は、お母様が一番ご存じのはず。それでも操縦を覚えたのは、あなたに近づく道が他になかったからです。今日、十三番の中で、初めて寒くありませんでした。背中の向こうに、脈を聴く人がいる。泥に足を取られた刹那、先に受けが来ました。誰にも言えないことを一つ、ここに書きます。あの受けの半拍を、わたくしの体は、信頼と呼び始めています。門の外の紋章を見るまでは、いい一日でした。




