2. 拒否権はありますが、行使しません
「アイゼンガルテンの首席ともあろう方が、どこの馬の骨とも知れぬ男を後席に据えるおつもりか」
絹の手袋の受験者が、声を張り上げた。指名式の会場は、失笑からざわめきへ、ざわめきから抗議へと沸き立っている。
無理もない、とは思う。鋼騎士の連成実技は、技師試験の華だ。観覧席には貴族も工廠の役人も並ぶ。その晴れ舞台で、首席令嬢の背中を預かるのが、学歴欄「なし」の修理屋なのだから。
係官は額の汗を拭き拭き、規程の綴りを忙しなくめくった。やがて読み上げられた条文は、素っ気ないほど短い。指名は学院席次の順。技師の側に拒否権。複座で出走する場合、技師は後席に同乗する。家格については、一行もない。
「適法です」
審判長席の老人が、綴りを閉じて言った。主任試験官、ドナート・クロネ。白髪を短く刈り込んだ、規程がそのまま人の形になったような顔つきの老人である。
「指名に家格の定めはない。不服のある者は、感想ではなく条文を持ってきなさい」
絹の手袋が、ぐ、と喉を詰まらせて引き下がる。ざわめきは渋々と潮が引くように収まっていった。老人はついでのように、俺のほうへ目を向ける。
「受付百二十四番。二次の査定保留について、審判部の裁定を伝える。仕込みの三件、特定・処置・報せ書、三件ぶんの持ち点は満点。課題の範囲の外の整備は――査定せず、記録に留める」
「……記録、ですか」
「規程に無いことは、罰にも褒美にもならん。あるのは記録だけだ」
妙な言い回しだと、このときは思っただけである。
式は残りの指名へ進む。二位以下の騎手たちは、伝統どおり滞りなく家格の釣り合う相手を選び、選ばれた側も心得た顔で礼をする。談合の出来上がった芝居を眺めているようで、あの指名だけが、どれほど筋書きの外だったかがよく分かる。
その間、壇に戻った首席は、姿勢ひとつ崩さずに立っていた。ざわめきも嘲りも、あの人の周りだけ風が止んでいるように見える。凛、という字を人の形にしたら、ああなるのだろう。
最後に、連成課目の説明がある。査定路は工廠裏の演習地。泥濘路に始まり、百二十キロの俵束を担いで三百メートル、階段の登り降り、仕上げは煙幕の焚かれた火場歩きだ。走破の速さと、機体をどれだけ傷めずに戻すか、その両方が査定になる。
ドナートは最後に、条文をもう一つ、抑揚なく読み上げた。
「特例第九条。課目中の人命救助による中断は、審判長の裁定により、中断時点からの再開と、救助に要した時間の控除を認める。――使われたことのない条文だ。無いよりはましだから、置いてある」
式が果て、控えの間へ向かう廊下で、彼女に呼び止められる。
「理由を、申し上げていませんでした」
フレデリカ・アイゼンガルテンは、指を一本立てる。
「一つ。わたくしは複座で出ます。願書の工歴は騎手に公開されますから、拝見しました。払い下げの複座機で、納品試走の後席が数百回。後席の実務を積んだ受験者は、あなたの他に一人もいません」
二本目の指が立つ。
「二つ。今日の整備。手順も、音も、報せ書も、わたくしの知っているやり方と同じでした」
三本目の指は、立ちかけて、少し迷った。
「……三つ目は。あなたの名が、カルデンだから」
声の最後が、わずかに震える。
祖父の名を、この人は知っている。どこで、どうやって。喉まで出かかった問いは、侯爵令嬢と下町の修理屋という距離の前で、行き場を失った。
係官が横から、事務的に告げる。
「技師側には拒否権があります。行使されますか」
「行使はしません」
自分でも驚くほどの即答である。
彼女の目が、ほんの少しだけ緩んだ。冬の湖に、陽が差す色だ。
「機体は、後席の見立てに従います。どれで行きますか」
「……十三番で」
彼女の眉が、面白がるように上がる。
「理由を伺っても」
「今朝、あいつの脈を全部聴きました。直した機体は、癖まで知っています。知らない優等生より、知っている苦労人です」
「では、十三番で」
去り際、彼女は思い出したように振り返る。
「明朝、査定路の脇の整備場で。……あなたの機体を、よろしくお願いします」
あなたの機体、と首席は言ったのだ。廃棄の荷札を提げたポンコツが、たったいま、誰かの機体になった。
廊下の向こうで、また誰かが息を呑んだ。廃棄検討の荷札を提げた機体で、首席が走る。悪目立ちはもう、酒場の看板ほどに堂々としたものである。
◇
手帳の余白より 夏初月三日の夜
名を口にするとき、声が震えました。十五年、誰にも言わずに抱えてきた姓を、本人を前に呼ぶのは、思っていたよりずっと重いこと。お母様の手帳のあの頁を、今夜も開いています。『この子の機嫌は皆が訊く。脈を聴くのは爺やだけ』――この子とは、あなたの白い機体のことです。わたくしはまだ、三つ目の理由の中身をあの人に話せません。けれど拒否権は、行使されませんでした。ためらいのない、即答です。あの即答を、わたくしはたぶん、ずっと覚えています。




