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29. 十五年目の返還

 返還式は、拍子抜けするほど小さい。


 監理局の一室に、係官が三人と、監理卿と、ドナート。それだけである。楽隊も、祝辞も、参列者もない。長い卓の上に、紺の布包みが一つ置かれ、規程の文が読み上げられ、俺がそれを受け取って、終わりだった。


 だが、それでよかったのだと思う。


 祖父が章を返上した日も、たぶんこれくらい小さかったはずだ。人が二人と、紙が一枚。誰も見ていないところで人の三十年が切られたのなら、戻すときも同じ大きさでいい。派手にされたら、俺はきっと怒っていた。


「カルデンの」


 式のあと、監理卿が言う。


「宮廷魔導技師ニクラス・カルデンを、アイゼンガルテン家専属機関士に任じる。……本来なら、指名は当主が出すものだ。だが今回は、順序が逆になったな」


「……はい」


「娘に先を越されてな。夏の初め、試験場でのことだ」


 この人が皮肉を言うのを、俺は初めて聞いた。


 皮肉というより、たぶん照れである。この親子は、照れ方までよく似ている。


       ◇


 布包みを開けたのは、その日の午後、店の作業台の上でだった。


 技師章。


 銀の地に、鋼騎士(シュタールリッター)の胸郭を図案化した刻印。裏に登録番号と、姓名。ヨルゲン・カルデン。


 十五年ぶんの曇りが、全体を鈍く覆っていた。


 銀は、放っておくと黒ずむ。これは誰の手にも触れられずに、局の簞笥のどこかで十五年眠っていたのだ。返す気があったから捨てられなかったのか、捨てるきっかけがなかっただけなのかは、分からない。たぶん、その両方だと思う。


 俺は、油布を出した。


 機体の部品を拭くときと同じ布で、同じ手つきで拭く。強く擦らない。曇りは擦って落とすものではなく、拭いているうちに落ちるものである。


 こういう手仕事をしていると、頭の中がよく回る。


 この章を、祖父はどんな気持ちで外したのだろう。裁定の席で一言も抗弁せず、騎手の名誉だけを守って、これを卓の上に置いて帰ったのだ。帰って、下町の店の土間で、孫に締め歌を教えた。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。あの声を思い出すと、いまでも指の先に拍が戻ってくる。


 あの人は、教えるときだけ饒舌だった。


 自分のことは何も言わなかったが、機械のことなら一日でも喋る。俺はそれを、無口な人だと思っていた。違ったのだ。喋る場所を、あの人は一つに絞っていただけである。


 布の下から、刻印が現れてくる。


 曇りが薄れると、銀は思っていたより白い。この白さを、祖父は毎朝見ていたのだろう。工廠の門をくぐるとき、胸のここに、この白があった。


「――ずいぶん、綺麗になりましたね」


 声がして、顔を上げる。


 彼女が、作業台の向かいに立っている。いつからいたのか、気づかなかった。今日は学院の制服ではなく、下町を歩くための地味な外套を着ている。この人は最近、うちの店の勝手口から入ってくるようになった。


「もう半刻ほど拭けば、もっと白くなります」


「では、待ちます」


 彼女は椅子を引いて、向かいに座る。


 待つ、と言った人が、本当に何もせずに座って待っている。この人はこういうときに手伝おうとしない。これは俺の手でやる仕事だと、たぶん最初から分かっている。


       ◇


 拭き終えた章を、俺は壁の釘に掛けた。


 祖父の遺影の、横。合格発表の朝に見上げて、まだ空いていると思った、あの釘である。


 掛けてみると、驚くほど収まりがよかった。十五年空いていた場所には、十五年ぶんの形が残っている。釘の位置も、遺影との間隔も、最初からそこへ戻すために誰かが決めたようだった。決めたのは、たぶん祖父自身だ。あの人は、いつか誰かが掛け直す前提で、この釘を抜かなかったのかもしれない。


「爺さん」


 口に出して、呼んだ。


「戻ってきたぞ」


 返事はない。遺影の中の祖父は、相変わらず不機嫌そうな顔をしている。写真を撮られるのが嫌いな人である。


 俺は、その顔を見上げたまま、しばらく突っ立っていた。


 嬉しいはずである。この一行のために全部やってきたのだ。なのに実際に手に入れてみると、胸に来たのは喜びよりも先に、寂しさである。


 あんたに、直接見せたかった。


 それだけである。十五年待ったのはこの人で、待ちきれずに死んだのもこの人で、章が戻った日に立っているのは俺だ。順番というのは、いつもそうやってずれる。


 肩に、そっと手が置かれる。


 振り返らなかった。振り返ったら、たぶん顔が見せられないことになる。彼女も、そのまま何も言わずにいてくれた。


       ◇


 夕方、下町の外れの墓地へ行く。


 石は小さい。カルデンの名だけが彫ってある。宮廷魔導技師の墓ではなく、下町の職人の墓である。あの人はそれを選んだ。


 彼女は、白い花を持って隣に立った。


 屋敷の温室のものだろうと思ったが、訊いてみると、下町の花売りから買ったのだという。この人はそういうところで、決して間違えない。


「……紹介します」


 俺は、少し迷ってから言う。


「爺さん。この人が、フレデリカ・アイゼンガルテン様だ。アデルハイト様の、娘さんです」


 風が、墓地の草を鳴らした。


 秋の初めの風である。雨のあとの土は柔らかく、遠くで下町の夕方の音がしている。鍋の音、子供の声、犬。生きている音がここまで届く場所に、この人は眠っている。


 彼女が、膝を折った。


 制服でも礼装でもない外套のまま、下町の墓の前に、ためらいなく膝をつく。


「ヨルゲン・カルデン様。……初めて、ご挨拶を申し上げます」


 声が、静かである。


「母の右脚を、いつも直してくださっていたと伺いました。母の手帳に、あなたのお名前が三度出てまいります。今日も右脚が拗ねる、ヨルゲンが叱ると直る、妬ける――と」


 彼女の指が、白い花を石の前に置く。


「母は、あなたを信じておりました。わたくしも、あなたのお孫さんを信じております。……いま、後席に乗っていただいております」


 俺は、何も言わずに立っていた。


 言葉が出なかったのではない。この場は、俺が喋る場ではなかったのだ。十五年前に途切れた糸を、この人が自分の手で結び直している。俺にできたのは、それを黙って見ていることだけである。


 立ち上がった彼女の目が、少しだけ赤い。


「――お孫さん、と申し上げてよろしかったでしょうか」


「はい」


「よかった。名前で申し上げたら、雷が落ちそうな気がしたのです」


「……落ちますね、たぶん」


 二人で、少し笑う。


 墓の前で笑うのは行儀が悪いのかもしれないが、あの祖父は、たぶん怒らない。怒るとしたら、笑わずに湿っぽくしていたほうだ。


       ◇


 店へ戻ると、表に人だかりができている。


 梯子組である。樽と、大鍋と、若い衆と、女房連。ヤンが腕を組んで、店の看板を見上げていた。


「坊」


 親方が、振り返らずに言う。


「章、戻ったってな」


「戻りました」


「そうか」


 それだけ言って、この人は鼻をかんだ。分厚い手で乱暴に。


 それから、店の壁を親指で指した。裁定書の写しと、技師章と、遺影。三つが並んでいる。


「――で、坊。店はどうする」


       ◇


 手帳の余白より 秋初月十六日・夜


 爺やの章が、遺影の横の釘に戻りました。十五年空いていた場所は、十五年ぶんの形を覚えているのですね。あの人は喜ぶかと思いましたら、しばらく黙って立っておりました。肩に手を置きましたが、振り返ってはくださいません。振り返らないでいてくれて、よかったと思います。墓前でご挨拶を申し上げました。膝をついたわたくしを、あの人は黙って見ております。お母様、あなたが信じた後席のご家族に、わたくしはやっとお会いできました。


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