28. 裁定、取り消し
御前は、短かった。
濡れた礼装のまま謁見の間へ通される。俺は生まれて初めて、王という人を近くで見た。思っていたより小柄で、思っていたより疲れた目をしている。人の上に立つというのは、たぶんそういう顔になる仕事なのだろう。
言葉は、二つだけだった。
救援への礼と、跳躍への称賛である。裁定にも、再審にも、王は一言も触れなかった。触れないことが、この人なりの筋の通し方なのだと思う。
ただ、退出のとき、隣の列に總監ホルガーが立たされている。
叱責の言葉は聞こえなかった。聞こえないように配慮されていたのだと思う。だが、あの太った肩が、ひとまわり小さくなっていたのは分かった。工廠總監は、この年の暮れに退く。そう聞いたのは、もっとあとの話である。
◇
翌日、秋初月十六日。
監理局の裁定の間は、飾りの一つもない部屋だった。
高い天井、長い卓、壁一面の書架。雨は上がって、高窓から入る秋の光が、埃を細い柱にして立てている。この部屋で十五年前、祖父の名が切られた。同じ部屋で、今日その紙が動く。
俺は、傍聴の席にいる。
請求人は本来もっと前に座るものらしいが、席次の作法を知らないと言ったら、係官が「では慣例どおりで」と隣を空けてくれた。その隣に、彼女がいる。
膝の上に、祖父の聴診棒。
今日も持ってきたのだ。読み上げが始まる前から、この人は柄をきつく握っていた。指の関節が白い。俺のためにここまで力の入る人がいるという事実を、どう受け止めていいのか、いまだに分からないでいる。
「――再審請求第七号。読み上げます」
首席検分官が、卓の上の綴りを開いた。
紙の擦れる音。人の声。それだけの部屋で、十五年が一枚ずつ剥がされていく。
「三十七年秋初月十五日、建国祭観閲式における〈ヴェスペリーネ〉転倒事故に関し、三十八年に下された整備責任裁定を――取り消す」
取り消す――――。
三文字である。いや、四文字か。また数えている。受理せずの朱印を見た日と、同じ癖が出ている。
「破断の原因は、右脚継手の材質不適合と認定する。当該継手は納入時に検品を省略されており、規格外の合金を含む。工廠試料室の判定書、公開負荷試験の記録、封蝋保全された実物、改修台帳、納入台帳の各証拠が、これを支える」
支える、という言い方が、妙に耳に残った。
紙が事実を支えている。十五年前は、紙が人を切った。同じ紙が、今日は支える側に回っている。刃の向きを変えるのは、隣に何を置くかだ――そう言った老人が、卓の端に座って天井を見上げている。
「後席機関士ヨルゲン・カルデンの当日の緊急操作については――」
彼女の手が、俺の袖を掴んだ。
掴んで、すぐには離さない。
「――全圧を前席庇護へ転じた判断を含め、適切であったと認める」
◇
俺は、泣かなかった。
泣くつもりで来たわけでもないのに、泣かなかったことが自分でも意外である。ただ、体の中の重たいものが、下から順に抜けていく感じがした。肩から、肚から、膝から。抜けたあとに何が残るのかと思ったら、残ったのは妙な静けさである。
爺さん。異音なし、だ。
あんたの報せ書は、正しい。あんたの耳も、手も、紙も、全部正しかった。正しくなかったのは、あんたの手が触れる前の鍋の中身だけだ。
読み上げは、続いている。
「ギルドナー商会は、当時の代表者の自認に基づき、賠償及び納入検品制度の改定を行うものとする。鋳造所の主は既に故人であり、これを問わない」
最後列で、老人が深く頭を下げていた。
賠償の額は、商会の身代を傾けるほどのものではないという。むしろ重いのは、検品制度の改定のほうだ。省の印は廃止され、納入品の抜き取り検査が義務づけられる。エミールが起草したのだという。
「工廠總監については、本裁定に関する組織的判断の不当を認め、監理局より勧告を行う」
誰も、吊るされなかった。
鋳造所の主は死んでいる。先代は自分から名乗り出ている。總監は真相を知らなかった。十五年前に人が一人死んで、一人の名誉が切られて、それでも今日、新しく吊るされた人間は一人もいない。
それでいいのだと思う。
俺が取り返したかったのは誰かの首ではなく、紙に書かれた一行である。
「本裁定は、監理局裁定書に記録するとともに、本年建国祭観閲式の公式記録に併記する」
二系統の記録。
片方が失われても、もう片方が残る。十五年前、祖父の進言書の写しが一枚しかなかったから、あの老人は十五年動けなかった。同じことを二度させないための、たった一行の工夫である。
◇
印璽が、落ちる。
タン、という音だった。
乾いた、小さな、なんの感慨もない音である。機体検査証の枡に検印が落ちる音と、まったく同じだった。この国の役所の印は、たぶん全部同じ音がする。人を切るときも、人を戻すときも、同じ音がするのだ。
その音を、俺は生涯忘れないだろうと思った。
彼女の指が、袖から離れる。
離れる間際に、一度だけ、ぎゅっと強くなる。それが何を言おうとしていたのか、俺には分かった気がした。分かった気がしただけかもしれない。それでも、耳の先がまた熱くなったので、たぶん合っている。
◇
散会のあと、廊下は静かである。
石の床に秋の光が長く伸びて、俺たちの影が二つ、並んで落ちている。鋼騎士の一体もない建物の中で、この国のすべての機体の是非が決まる。検収科で最初にそう思った日から、まだ二か月に足りない。
「カルデン技師」
係官が、追ってくる。
技師、と呼ばれて、一拍遅れて自分のことだと気づく。
「監理局より、お渡しするものがございます」
差し出されたのは、布の包みだった。
紺の布に、朱の紐。掌に乗るほどの小さな包みで、思ったより重い。金属の重さである。受け取った瞬間、指がその形を思い出す。
形を、指のほうが先に知っていた。
店の壁の、遺影の横。ずっと空いたままの釘に、かつて掛かっていたものの形である。
◇
手帳の余白より 秋初月十六日
取り消す、と読み上げられたとき、わたくしはあの人の袖を掴んでおりました。無作法なことだと後から思いましたが、あのときは指のほうが勝手に動いたのです。爺やの緊急操作は適切であった――その一行を聞くために、あの人は工歴三年を待って願書を出し、記念受験と嘘をつき、十三番を直し、封印庫の扉を開けさせ、破断面を保全し、請求人の欄に自分の名を書きました。印璽の音は、タンと小さなものです。世界が変わる音は、案外そういう音なのですね。廊下で係官が布包みを差し出したとき、あの人の指が震えておりました。




