27. 母の機体は、二度と落ちない
再検分は、雨の中で行われる。
天幕を張る時間も惜しいと言ったのは、ドナートである。式次第は進んでいる。次の課目が始まるまでに終えねば、後続の出走に響く。老人は膝をつき、白髪を濡らしたまま、俺の隣で右脚を検めた。
「継手。増し締めの緩みなし」
「――ありません。索を張ったのは腰環で、脚には捻りが入っていません」
「導脈、圧の漏れは」
「泡で見ます」
石鹸水の泡を継ぎ目に塗り、圧を送る。膨らむ泡があれば漏れだ。雨に打たれて泡はすぐ流れるが、流れる前の一瞬だけ見ればいい。俺は膝をついて、雨粒の合間に目を凝らす。
膨らまない。
「漏れ、なし」
「軸受」
「遊び、規定内。むしろ今朝より馴染んでいます」
老人が、ふん、と鼻を鳴らした。
「働いた機械は馴染む。人と同じだな」
最後に、老人は自分の耳で聴く。
聴診棒を貸してくれ、と言われて、俺は祖父の道具を渡した。柄の擦り減った樫の棒を、この人は当たり前のように受け取って、当たり前のように装甲へ当てる。監理局の受付官だった男の手つきではない。もっと古い、機関士の手つきだった。
「……いい脈だ」
しばらくして、老人はそう言う。
「三十七年に、この機体の脈を聴いた男がおった。わしは受付でその報せ書を読んだ。異音なし、と書いてあった。……坊主、いまのこれも異音なしだ。十五年ぶりに、同じ字を書けるな」
喉の奥が、詰まる。
俺は返事をせずに、聴診棒を受け取って、道具袋へ収めた。ここで何か言えば、たぶん声にならない。
「雨天条件、複座係数の適用を再確認。機体、続行可」
老人が立ち上がり、雨の中で規程集を閉じる。
「――さて。ここからは、わしの権限ではない」
◇
式次第では、こういうとき王の裁可を仰ぐのが古い作法だったという。
だが今年の式次第に、その一行はない。ドナートが手を入れたのだと、あとで聞いている。十五年前、権威と日程が安全を押し切って、一人が落ちた。だから今年は、走るか走らないかを決めるのは、走る当人だけである。
「〈ヴェスペリーネ〉前席。フレデリカ・アイゼンガルテン」
「はい」
「続行するか」
雨の音が、やけに大きく聞こえた。
貴賓席のほうから、視線が集まっているのが分かる。あの中に監理卿がいる。娘が母と同じ溝を跳ぶかどうかを、鉄に触れない男が見ている。
彼女の声は、短い。
「参ります」
「〈ヴェスペリーネ〉後席。ニクラス・カルデン」
俺の名が、雨の中に呼ばれた。
下町の修理屋の名である。工歴三年で受験資格が立ったばかりの、記念受験の男の名だ。それが宮廷の観閲場で、前席と対等に、続行の是非を問われている。
答えは、決まっている。二日前の夜から――いや、十五年前から決まっていた。
「お供します」
◇
「両席、繋がりました」
「鋼騎士、起きます」
ヴォンと、重い音を奏でながら炉が脈を打つ。
覗き窓の蓋を閉め、俺は暗がりに沈んだ。ここから先は、音と足裏だけの世界である。
助走に入る。
雨が装甲を叩く音が、走るにつれて後ろへ流れていく。石畳。締めた土。上澄みの柔らかい土。この道はもう三度踏んだ。硬さの並びが、全部頭の中に入っている。
「後席。溝が、見えました」
「はい」
「……思っていたより、狭いです」
彼女の声が、少し笑った。
十五年、この人の中でその溝は、どれだけ大きかったのだろう。実物を目にして狭いと感じるまでに、十九年と、この夏の全部が要ったのだ。
「踏み切りの三歩前から、腰へ圧を寄せます。膝は、送ってください」
「送ります」
「――俺が、受けます」
言葉は、そこまでだった。
あとは、拍だけである。
◇
一歩。二歩。三歩。
彼女の息が、引く。
俺は腰へ圧を寄せた。脚ではなく、腰だ。跳ぶ力は脚が出すが、跳んだあとの姿勢は腰が決める。祖父の帳面に、そう書いてあった。
踏み切り。
足裏から、地面が消えた。
滞空である。
――静かだ。
こんなに静かなものだとは、思っていなかった。雨の音が、変わる。走っているときは装甲を斜めに叩いていた雨が、いまは上から真っ直ぐに落ちてくる。細かく、均一に、天井を撫でるような音になる。関節の音が消え、足裏の感触が消え、残っているのは炉の脈と、その雨だけである。
アデルハイト様は、この音を聴いたのだろうか。
十五年前、この静けさの中で、あの人は何を思っていたのだろう。そして――この静けさのあとに、右脚が折れたのだ。
俺は、右へ圧を送り始めた。
着地の前に。地面より先に。
束ねる。腰から右脚へ、導脈を順に開けていく。全開ではない。八分。着地の衝撃を殺しきってしまうと、機体は次の一歩を出せない。逃がすぶんを残して、受ける。
彼女の膝が、送られてくる。
半拍早い、この人の拍で。俺はその半拍に合わせて、もう圧を置いてある。二日間、査定路を往復して覚えたのは、この半拍だけだ。たった半拍のために、二日を使った。安いものである。
落ちる。
◇
右脚が、地面を捉えた。
衝撃が、足裏から背中を通って、頭のてっぺんまで抜けていく。膝が沈む。沈んだところで、俺の圧が下から受ける。受けて、支えて、逃がす。
十五年前、ここで折れた。
今日は、折れない。
継手は現行の正規品で、検収はエミールの印が捺してある。締めたのは俺の手で、拍は締め歌の四つだ。十三割の負荷に耐えることを、五日前に人前で証明してある。この一本には、嘘が一つも混ざっていない。
二歩目が、土を噛んだ。
三歩目。四歩目。〈ヴェスペリーネ〉が、溝の向こう側を走っている。
俺は、しばらく何も言えない。
言葉が出てこないのではない。喉のところで、何かがつかえて動かないのだ。祖父が三十年黙って働いた工廠で、祖父が最後に触れた機体が、祖父の孫を背負って、祖父の名誉を折った溝を越えた。
――爺さん。
胸の内で、そう呼んだ。返事はない。あるはずもない。だが、あの人が三十年かけて締め続けた締め跡の上に、俺の締め跡が重なっている。返事なら、そこにある。
◇
順路の終わりで、機体が静止した。
外の音が、遅れて戻ってくる。歓声だ。さっきより大きい。雨を突き抜けて、観閲場の石壁に何重にも反響している。
伝声管が、静かだった。
声はない。だが、無音ではない。息を吸って、途中で震えて、また吸う音。それが繰り返されている。
俺は、何も言わない。
言わずに、聴いていた。この人が人前で泣かないことを、俺は知っている。装甲の中は、人前ではない。ここは前席と後席しかいない場所で、その二人以外には誰にも聞こえない。世界でいちばん狭くて、たぶんいちばん安全な場所である。
やがて、声が戻る。
「……後席」
「はい」
「母は、落ちました」
「はい」
伝声管の中で、息が一度だけ深くなる。
「わたくしは、落ちませんでした」
「――はい」
それだけだった。
それだけで、十五年ぶんが片づいたわけではない。片づくものでもない。だが、この人が母の落ちた場所を自分の脚で越えて、越えたと自分の口で言った。今日はそれで、十分すぎる。
「鋼騎士、寝かせます」
炉の火が、落ちていく。
◇
貴賓席で、人が立ち上がる気配がした。
王が立って、拍手を送っているのだという。裁可も、裁量も、この人は一つも挟まなかった。走ると決めたのは両席で、続行可と言ったのは技術審判長で、王がしたのは、結果を見て立ち上がることだけである。
それでいい、と思った。
十五年前に足りなかったのは、たぶん、まさにその順番だったのだ。
降りると、雨の中に監理卿が立っていた。
傘もささずに、外套の肩を濡らして、機体の前に立っている。娘が胸郭から降りるのを、この人は最後まで見ていた。目を逸らさずに、である。
そして、鉄に触れない男の手が、白銀の装甲に触れる。
掌を当てて、少しのあいだ、そのままでいた。十五年ぶりだったのだろう。何を確かめていたのかは、俺には分からない。ただ、あの人の掌には、機体の炉が冷えていく温もりが伝わっていたはずである。
「――監理卿。両席に、御前へ出るようにとのことです」
係官が走ってきて、そう告げた。
そして、もう一言。
「監理局からも使いが来ております。再審裁定の読み上げ、刻限が決まりましてございます」
◇
手帳の余白より 秋初月十五日・夜
跳びました。滞空は、驚くほど静かです。雨が真上から降ってくる音だけがして、あの一瞬、母のことを考えていたと思います。着地の右脚は折れませんでした。折れない、と後席が言い、本当に折れなかったのです。装甲の中で泣いたのです。人前ではないと自分に言い訳をして、思い切り泣きました。あの人は何も言わずに聴いております。降りたら、父が機体に触れておりました。十五年、鉄を憎んだ手です。お母様、わたくしたちは今日、落ちませんでした。




