26. 曳き出し
考えるより先に、指が動いていた。
右の弁を全開。左を三分の一。腰へ回す圧を先に厚くして、いつでも向きを変えられる形を作る。頭が「どうする」と訊いている間に、手のほうはもう答えを出していた。十を過ぎた時分から、火事場でそうやって働いてきた手である。
「前席。順路を外れます」
「――もう、外れております」
声が、重なる。
あの日と、逆だった。査定路の煙の中で、行って、と言ったのはこの人で、応じます、と答えたのが俺である。今日は、二人の手が同時に動いた。どちらが先でも、どちらが後でもない。鋼騎士というのは、そういうふうにも動けるらしい。
機体が、順路の縄を跨ぐ。
審判部の席から、中断の合図が上がった。礼典課目の中断は、走行の放棄と同じ意味を持つ。十五年ぶりの跳躍も、母の道も、この一歩で全部なくなる。
なくなって構わない、とは思わなかった。惜しい。惜しくてたまらない。
それでも脚は前へ出ていた。惜しいと思いながら捨てられることを、この人はもう査定路で証明している。俺はその後席にいる。それだけの話だ。
◇
迂回路に着くまでの十数歩で、俺は音を集めた。
五型の絞る音は、もう鳴っていない。絞り切って、出力が枯れたのだ。代わりに、鋼が土を擦る低い音がする。滑っているのではない。倒れかけたまま、自重で少しずつ土を掘っている音である。
そして、その音の下に――人の声が、二つ。まずい……。
「前席。ここから、俺が絵を描きます」
「どうぞ」
「機体の向きと、人の位置を。目のあるほうが言ってください」
「先頭の五型が右へ倒れかけ、路肩の外へ半身出しています。胸郭は下側です。騎手は中。……ギルドナー様は、機体の肩と盛り土の間に、腰から下を埋めておいでです」
埋まった、ではない。埋めた、でもない。この人は見えた通りを、余計な色をつけずに寄越してくれる。おかげで俺の頭の中に、絵がそのまま立った。
「動かないよう、声を掛けてください。名前を呼んで、息を数えさせる」
「――ギルドナー様。エミール様。息を、わたくしと数えてくださいませ。ひとつ、ふたつ」
伝声管の外へ張った彼女の声が、雨の中に落ちていく。
恐慌は、声で一段静まる。火消しの手順そのままだ。あの日、俺が煙の中でやったことを、この人はもう自分のものにしている。
俺は覗き窓の蓋を開けない。
開けても、雨だ。開けても、俺には何もできない。俺にできるのは、この暗がりで音を聴き、圧を作り、装甲越しに地面の硬さを読むことだけである。それで足りる。今日まで、それで足りてきた。
◇
「まず、転がりを殺します」
背嚢の脇の曳索を出す。三型の古い装備だ。使われなくなって久しいこの索が、この夏、二度目の仕事をする。
「索を、五型の腰環へ。前席、掛けたら張ってください。起こすのは、そのあとです」
「はい」
鉤が金属を噛む、かつん、という音。それから索が張っていく音がした。麻の芯が伸びきって、繊維がぎしりと詰まる。雨を吸った索は重く、張ると水がまとめて絞り出される。索の張る音というのは、聴いていて気持ちのいい音ではない。人ひとりの命が、この繊維の束に乗っている音である。
「張りました」
「保ってください。転がる向きは、これで死にました」
次は、支えだ。
素手で持ち上げてはいけない。火消しの曳き出しは、まず支えからである。目の端で――いや、耳で、俺は使える板を探した。天幕の重しに使っていた足場板が、観閲場の縁に積んである。
「前席。左手、二十歩。板が積んであるはずです」
「あります。二枚」
「一枚を、五型の肩の下へ。泥に噛ませてください。雨の日の板は、上へ置くと滑ります。土を掻き取って、板の腹を土の中へ入れる」
「――噛みました」
感触が、足裏から上がってきた。
板が泥に沈み、その下の締まった土に当たって止まる。かつん、ではなく、ずぶ、と鈍く止まる感触。あの止まり方が出れば、板は逃げない。下町の火消しが、雨の日に何十回とやっている手筋である。
「肩を入れます。前席、一寸ずつ。急がず、戻さず」
「――保ちます」
十五年ぶりの機体が、他人の機体の肩の下へ、自分の肩を差し入れた。
俺は胴に圧を束ねる。全部を脚へ回さない。半分は腰へ残して、機体が自分の姿勢を保てるようにする。持ち上げるのではない。保つのだ。装甲を泣かせず、戻さず、保つ。
一寸。
二寸。
五型の肩と盛り土の間に、隙間が生まれる。
「もう一枚を、隙間へ。支点にします」
板が滑り込む音。それきり、機体は動かなくなった。動かないことが、いまは仕事である。
「――ギルドナー様が、出ました」
彼女の声が、初めて少しだけ揺れた。
揺れて、すぐ元に戻る。この人は必要なときには揺れない。全部終わってから、まとめて揺れる人だ。
「立てるか、訊いてください」
「立てるそうです。……ご自分の足で、歩いておいでです」
「上等です。次、胸郭を開けます」
◇
騎手が引き出されるまでに、さらに半刻近くかかる。
横倒しの機体から人を出すというのは、力ではなく順序の仕事である。胸板の鋲を落とし、面覗窓の枠を外し、隙間を作り、担架を差し込む。作業をしたのは工廠の若い衆と梯子組で、俺たちは最後まで、五型の肩を保っていただけだった。
保つ、というのは何もしていないように見える。
実際には、半刻のあいだ、俺は一度も同じ圧を送っていない。雨が土を緩めるたび、板がわずかに沈むたび、五型の重心が動く。動くたびに、こちらは半拍先に圧を足す。足しすぎれば持ち上がってしまうし、足りなければ落ちる。目盛は見ていない。彼女の呼吸と、足裏の感触だけで足している。
その半刻、伝声管の中は静かである。
彼女の声も、俺の声も、驚くほど落ち着いている。外では雨が降り、人が走り、指示が飛び、鐘や号笛が鳴っている。この装甲の内側だけが、静かだった。
「後席」
「はい」
「わたくしたち、いま、たぶん誰よりも落ち着いております」
「……そうですね」
落ち着いていられるのは、たぶん、手が忙しいからである。
「不思議です。母のことも、跳躍のことも、まるで考えておりません」
「考えていたら、保てません」
「――ええ。そういうものなのですね」
そういうものなのだ。
人を助けている最中の人間は、たいてい何も考えていない。考えるのは終わってからで、そのときにはもう、膝が笑っている。
「――解放してよし!」
外から、声がかかる。
俺はゆっくりと圧を抜いた。板が受け、索が保ち、五型の半身が土の上へ静かに戻っていく。抜き終えて、初めて自分の肩が凝り固まっているのに気づく。指が、把手の形のまま曲がって伸びない。
それから、装甲の外で、音が変わった。
歓声だ。
雨の中で、観閲場の全体が鳴っている。梯子組の野太い声が、その中でいちばん大きい。まったく、あの人たちは宮廷の作法というものを一生覚えないのだと思う。
◇
覗き窓の蓋を開けたのは、そのときだった。
雨。泥。倒れた測位杭。担架。走り回る人影。そして、機体の脇に立っている、泥まみれの男が一人。
エミール・ギルドナーが、こちらを見上げていた。
眼鏡がない。どこかで落としたのだろう。眼鏡のないその顔は、俺が知っているどの表情とも違って見えた。理屈の早口も、悪意なき棘も、そこにはない。ただ、雨に打たれながら、白銀の機体を見上げている。
この機体の右脚を折ったのは、彼の家が納めた継手である。
その機体が、いま、彼を土の下から引き上げた。
俺は何も言わない。言えばたぶん、この場でいちばん言ってはいけない種類の言葉になる。ただ、覗き窓から手を出して、親指を一本立てた。下町の合図である。宮廷の作法にはない。
エミールが、泥だらけの手で、同じ形を返してきた。
◇
審判部の席から、白髪の老人が歩いてくる。
ドナート・クロネ。技術審判長である。雨よけの外套も着ずに、規程集を小脇に抱えたまま、泥の中を真っ直ぐに歩いてきた。
「〈ヴェスペリーネ〉、両席」
声が、雨を通してよく届く。
「救援作業により、機体は規程外の負荷を受けた。よって技術審判長の権限で、臨時の再検分を行う。右脚、継手、導脈圧。雨天条件の再確認も併せてだ」
「――お願いします」
「その上で、だ」
老人が、規程集を開く。
濡れないように、外套の下でもなく、雨の中で堂々と開いた。この人は、規程というものを隠して持たない。
「続行の是非は――両席に問う」
◇
手帳の余白より 秋初月十五日
順路の縄を跨ぐとき、後席と声が重なりました。行ってと言う人と応じる人ではなく、同時に外れたのです。あの人は暗い後席で目を閉じたまま、わたくしの言葉だけで泥の中の絵を描き、板を噛ませ、索を張り、半刻ものあいだ、他人の機体の肩を保ち続けました。保つというのは、何もしていないように見えて、いちばん難しいことなのですね。お母様、母の機体が今日、あの部品を納めた家の子を土から引き上げました。わたくしはそれを、報いとは呼びたくありません。ただ、うれしいのです。




