25. 雨の観閲式
秋初月十五日。雨。
十五年前の今日は、快晴だったという。
式典の朝の空を、俺は格納の大扉の隙間から見上げていた。低い雲が王都の屋根の上を東へ流れ、雨脚は細いが途切れない。石畳は黒く濡れて、観閲場の周りに張られた天幕が、時折たぷんと重い音を立てて水を落とす。
晴れでも偽装部品は折れる。雨でも、正しい機体と正しい手続きと正しい後席は落ちない。
そう思ってはいるが、思っているだけでは肚は据わらない。据わらせるのは手のほうだ。俺は朝から三度、右脚の継手の締めを検めた。三度とも同じである。四度目に手を伸ばしかけて、やめた。四度目は機体のためではなく、自分のためだ。
「後席」
背後から声がかかる。
彼女が、騎士学院の礼装で立っていた。深い青の上衣に、銀の飾り緒。髪を上げて、いつもより首筋が細く見える。雨の日の光は白く柔らかくて、その白さの中で、この人の目の色がいっそう澄んで見える。
俺は、言うべき言葉を三つほど考えて、全部やめた。
「――膝は、俺が受けます」
結局、十七日前に侯爵へ言ったのと同じことしか出てこない。
彼女は、それで十分だという顔をした。
◇
式次第は、粛々と進んだ。
王が臨席し、追悼の辞が読まれる。十五年前の名が読み上げられたとき、観閲場が完全に静まった。雨の音だけが残る。アデルハイト・アイゼンガルテン。俺の隣で、彼女の背筋は一分も動かなかった。
貴賓席の隅に、黒い外套が見える。監理卿は、鉄に触れない男だった。その人がいま、妻の名を読み上げられる場に、娘の走りを見るために座っている。
出走前、天候判断の宣告があった。
「五型展示隊、雨天条件により跳躍課目を中止。走行のみとする」
場内が、わずかにざわめく。
跳躍を中止した機体は、溝を跳ばずに外周の迂回路を徐行で通る決まりである。溝の縁を回り込む細い巻き道で、内側は年に何度も踏まれて締まっているが、外側の路肩は式典のために整えたばかりの盛り土だ。雨の日に通る道としては、いちばん性質が悪い。徐行なら問題はない――そういう前提で、退避線は巻き道の外側いっぱいに引いてある。
だが、これは正しい判断である。自律弁は乱れを絞ることしかできない。濡れた路面では絞りが重なって出力が枯れる。展示隊の隊長が礼をして下がっていく背中に、俺は素直に敬意を覚えた。跳ばないと決めるのは、跳ぶより難しい。
「〈ヴェスペリーネ〉。機体検査証、走行許可、負荷試験成績――三点、確認」
技術審判長ドナートの声が、雨の中に通った。
「雨天条件、複座係数の適用を認む。跳躍課目、実施」
欄が、二十四とも埋まっている。
五日前の午前、最後の一つに検印が落ちた音を俺は覚えている。こつん、と乾いた小さな音だった。あの一つの音のために、俺たちは三十二日と、十五年を使ったのだ。
◇
「両席、繋がりました」
「鋼騎士、起きます」
点火。
炉が目を覚まし、脈が背中を打つ。今日の火は、青の時間が短かった。一昨日たっぷり焚いてやったからだ。機体というのは、一度起きた記憶を残す。
覗き窓の蓋を、閉める。
視界が消える。残るのは足裏と、背中と、伝声管と、装甲を叩く雨の音だけになった。
この音が、いい。
雨が装甲を叩く音は、路面の状態をそのまま教えてくれる。硬い石畳の上を走っているとき、跳ね返りの音は高く細かい。土が浮いてくると、音が濁って重くなる。水が溜まっていれば、跳ね上がりが胴を叩く音が混じる。目で見るより早い。目は見えたものしか教えないが、音は来る前のものを教える。
「発進します」
「どうぞ」
一歩目。石畳。跳ね返りが高く細かい。圧はそのまま。
二歩目、三歩目。順路を右へ。天幕の下を抜けるとき雨音が一瞬だけ途切れ、機体の関節の音がやけに大きく聞こえた。抜けると、また雨。
観覧席のあたりで、音の質が変わる。
濁っている。土が浮いてきた。俺は左の弁を三分の一だけ絞る。着地。柔らかい。彼女の息が引く。開ける。着地。
合っている。
昨日の午前に合ったものが、今日も合っている。良くなっているものは、良くなり続けるのだ。
「後席。すごい歓声です」
彼女の声が、少しだけ弾んでいる。
「聞こえません。雨と、脈で」
「……ふふ。あなたらしい」
実を言えば、聞こえていた。
最初は貴賓席のあたりから、それが観覧席へ広がって、いまは観閲場全体が鳴っている。その中に、明らかに場違いな野太い声が混ざっていた。梯子組である。三十人ぶんの大きな声が、雨の中で他の全部を押しのけて響いてくる。宮廷の式典で、あの声はどう考えても不作法だ。
不作法で、ありがたかった。
◇
コースが、中盤へ入る。
階段登降を越え、俵束の荷担ぎを終え、順路は観閲場の東側へ回る。ここから先が、十五年前と同じ道である。
足裏に来る地面が、変わった。
石畳から、締めた土へ。雨を吸って、表面だけが柔らかくなっている。この足触りを、俺は下町で何度も踏んだ。火事場の裏道と同じだ。上澄みは滑るが、その下は硬い。踏み込みを浅くすると滑る。深く、まっすぐ入れれば噛む。
「前席」
「はい」
「この先、上だけが柔らかい土です。踏み込みは、いつもより深く」
「深く」
言葉を繰り返すのは、この人が集中しているときの癖である。
「俺が支えます。沈んでいいです」
「――はい」
迷いのない返事だった。
その返事を聴いた瞬間、俺は、この人がもう溝を怖がっていないことを知る。
伝声管を通ってくる息が、乱れていない。母の落ちた場所へ向かって走りながら、この人の呼吸は査定路の練習と一つも変わらない。人間の恐怖は必ず息に出る。出ていないのだ。
背中の方で、炉が規則正しく脈を打っている。
俺は、暗い後席で少しだけ笑う。信頼というのは、言葉でもらうものだと思っていた。違う。信頼は、息の形で届く。
「後席」
「はい」
「母は、この道を走ったのですね」
「はい」
「――今日は、二人です」
俺は返事の代わりに、右の弁を四分の一だけ先に開けた。
次の一歩が、深く土を噛む音がする。
◇
そして、前方の様子がおかしくなった。
最初に気づいたのは、音である。
俺の耳には、この場にあるべき音の並びが入っている。自分の機体の脈と関節、雨、歓声、そして先行する展示隊の足音。その足音の拍が、乱れた。
等間隔だったものが、詰まり、途切れ、また詰まる。
それから――絞る音がした。
かちり。かちり。かちり。あの、検収台で聴いた音だ。乱れを拾って絞る、自律弁の音。一度で済まないということは、乱れが連続しているということである。連続する乱れを、弁は一つずつ絞る。絞りが重なる。出力が枯れる。
「前席。前方、五型が」
「見えています」
彼女の声から、笑いが消えていた。
「迂回路です。溝の縁を回るところで、三体が縦に詰まって……先頭が」
息を、呑む音。
「――路肩の外へ、横に滑っています」
俺は覗き窓の蓋に手を掛けかけて、やめた。
見えたところで、俺にできることは増えない。俺にできるのは、聴くことと、圧を作ることだけだ。
絞る音は、まだ続いている。徐行のつもりで置いた足が盛り土の上澄みで流れ、流れを弁が絞り、絞られた脚がまた流れる。安全に止まるための機構が、止まってはいけない場所で正しく働いてしまっているのだ。誰も間違っていない。間違っていないまま、機体は退避線の外へ出ていく。
「滑る先に、何が」
「測位の杭です。退避線の、外側の――」
彼女の声が、そこで途切れる。
雨が、装甲を叩いている。歓声が、遠い。俺は暗い後席で、弁の把手に指を掛けたまま、次の言葉を待った。
「エミール様が、います」
◇
手帳の余白より 秋初月十五日
雨です。母が落ちた日は快晴だったと聞いております。母の道を、わたくしは今日、二人で走っております。上だけが柔らかい土だと後席が言い、深く踏めと言い、俺が支えると言うのです。だから沈みました。怖くはありません。溝は、もうすぐそこでした――が、前方で五型が滑っております。杭のところにいるのは、家の名で証言に立った、あの方です。




