24. 王国で一番近い場所
脈合わせ、と祖父はそれを呼んでいたらしい。
白髭の親方が言うには、古い工廠にはその言葉があったのだそうだ。前席と後席が互いの呼吸と拍を読み合えるようになるまで、ひたすら同じ道を往復する。書き物にはなっていない。教程にもない。組んだ二人が体で覚えるしかないものだから、後席が絶えたときに一緒に消えた。
「消えた、と思っとったがな」
白髭は、そう言って髭を掻く。
「まだ生きとる奴が、うちの科におった」
◇
秋初月十三日。朝から、査定路を往復した。
最初にやったのは、目盛を見ないことである。
後席の調圧盤には、導脈ごとに目盛の針が並んでいる。針を見て、数字で圧を切る。それが学院で教える正しい後席だ。だが針は、起きたことしか教えてくれない。針が振れたときには、もう遅い。
俺は覗き窓の蓋を閉めた。
暗くなる。鋼騎士の背嚢は、こうすると本当に何も見えない。残るのは、足裏に来る地面の硬さと、背中に来る炉の脈と、伝声管から流れてくる彼女の息だけである。
「前席。息を、殺さないでください」
「……息、ですか」
「あなたは着地の前に、必ず息を止めます。一瞬だけ。それが俺には、いちばん早い合図です」
管の向こうが、黙った。
「……気づいておりませんでした」
「たいてい、気づきません。俺も自分の癖は分かりません」
走る。
泥濘路の入口で、彼女の息が一度、すっと引いた。俺は目盛を見ずに、右の弁を半分だけ開ける。着地。膝が沈み、圧が受ける。背中に返ってきた衝撃が、昨日より柔らかい。
二歩目。息が引く。開ける。着地。
三歩目。
――こつん。
余分な衝撃。早すぎる。
「すみません」
「いえ。今のは、わたくしが息を止めませんでした」
「止めなかった理由は」
「……あなたに聴かれていると思ったら、恥ずかしくて」
俺は、危うく弁を全開にするところだった。
◇
昼を回るころ、雲が出る。
風が湿って、鉄の匂いが強くなる。雨の来る前は、鋼の匂いが立つ。下町の職人は皆それを知っていて、匂いが立ったら洗濯物を取り込めと女房に言われるのだ。工廠でも同じ匂いがした。ここも下町も、鉄は同じように濡れるらしい。
昼飯は、格納の外の石段で食べる。
彼女が屋敷から持たされた包みには上品なものが入っているが、俺の分の黒パンと塩漬け肉を見ると、この人は必ず半分を交換しようとする。断ると本気で残念そうな顔をするので、最近は最初から交換する前提で買うようになった。
「……あの、後席」
パンをちぎりながら、彼女が言う。
「明日で、二日目です」
「はい」
「合わなかったら、どうします」
俺は、塩漬け肉を噛んだ。
考えていないわけではない。合わなかった場合の走り方はある。跳躍を捨てて、走行だけで完走する。安全で、賢くて、誰にも責められない。そして、母親の落ちた溝を娘が避けて通る絵が、一生残る。
「合います」
「根拠は」
「今朝より昼のほうが合っていて、昼より午後のほうが合うからです」
言ってから、自分でも単純だと思った。
だが、機体というのはそういうものだ。良くなっているものは、良くなり続ける。悪くなっているものは、必ずどこかで音を上げる。今日の〈ヴェスペリーネ〉は、朝から一度も音を上げていない。
「あなたは」
彼女が、少し笑う。
「不安なとき、いつも機体の話をなさいますね」
「……ばれてますか」
「ばれております。ずっと前から」
風が、彼女の髪を撫でていった。石段の下では若い衆が水を撒いていて、その水の匂いと、遠くの炉の匂いと、彼女の側から流れてくる微かな石鹸の匂いが混ざる。奇妙な取り合わせなのに、俺はその匂いを、この先ずっと覚えているだろうと思った。
◇
秋初月十四日。二日目。
午前で、合った。
合った瞬間というのは、驚くほど静かなものである。派手な音も、劇的な手応えもない。ただ、いつも返ってくるはずの余分な衝撃が、返ってこない。
一歩。返らない。二歩。返らない。三歩、四歩、五歩。
泥濘路の端まで、一度も返ってこない。
機体が、まるで自分の脚で歩いているように動いている。前席の膝と、後席の圧が、同じ一つの動作の裏表になっている。俺は目盛を一度も見ていない。見る必要がない。彼女の息が引けば、指が勝手に弁を開けていた。
「――後席」
「はい」
「いま、わたくし、何も操縦しておりません」
「俺も、何も調圧していません」
伝声管の向こうで、彼女が笑う。
声を上げて笑うのを、初めて聴いた。凛とした敬語の刃も、年相応の照れも通り越して、ただ嬉しくてたまらないという笑い方である。装甲の内側で、その笑い声が反響する。俺は自分の顔が緩んでいくのをどうしようもできず、幸い、後席は誰にも顔を見られない造りになっている。
◇
夕方、最後の調整をした。
脈合わせの最後は、装甲越しに心音を拾う。
前席と後席は、薄い隔壁一枚を挟んで背中合わせに座る。隔壁に聴診棒を当てると、機体の脈に混ざって、人の心音が拾える。祖父の口伝にある最後の一項だ。走行中、伝声管が潰れたときに、後席が前席の生死を知る手段。本来は、そういう不吉な目的の技である。
「――当てます」
「はい」
柄を握り、触針を隔壁に当てた。
炉の脈。導脈の圧の音。その奥に、細く、速い拍。
速い。
「……速いです」
「言わないでください」
声が、上ずっていた。
「聴かれていると思うと、余計に速くなります。……こんな道具、誰が考えたのですか」
「祖父の代より前の誰かです」
「趣味が悪いです」
「同感です」
俺は聴診棒を離した。離してから、まだ耳の中にその拍が残っているのに気づく。
この人の心臓の音を、俺は聴いてしまったのだ。
機体の脈なら、何千と聴いてきた。壊れかけの音も、健やかな音も、嘘の混ざった音も分かる。だがこれは、俺の知っているどの音とも違った。速くて、少し不揃いで、生きているという以外に何の情報もない音。情報がないのに、耳から離れない。
「……もう一度、当ててもよろしいですか」
彼女が、そう言った。
俺は驚いて、伝声管の口を見る。
「必要は、ありませんが」
「必要ではなく」
少しの間があって、それから、静かな声。
「聴いていて、ください。ずっと」
俺は、答えない。
答える代わりに、聴診棒をもう一度隔壁に当てた。柄を握る手に力が入りすぎているのが、自分でも分かる。触針の向こうで、細くて速い拍が、少しずつ、少しずつ落ち着いていく。落ち着いていくその過程を、俺は最後まで聴いていた。
◇
前夜。
機体を休ませ、道具を拭き終えたのは、夜も遅くなってからだった。
格納の大扉を半分開けると、外は風が冷たい。雲が低い。星は一つも見えなかった。彼女は屋敷の馬車を待たせたまま、格納の入口に立って、〈ヴェスペリーネ〉を見上げている。
白銀の装甲が、灯りを受けて薄青く沈んでいる。
「明日で、終わってしまうのですね」
「終わりません」
俺は、道具袋の口を締めながら言った。
「機体は、走ったあとのほうが仕事が増えます。明日の夜から、また膝を診ることになる」
「……あなたは、本当に」
彼女が笑いかけて、途中でやめる。
笑うのをやめた顔が、灯りの下でひどく綺麗だった。冬の湖の色が、こちらを見ている。俺はこの色を、指名式の壇の上で初めて見た。あの日、この人は俺の名を知らない。俺もこの人の名を知らなかった。
いま、俺はこの人の心音の速さまで知っている。
言うなら、いまだと思う。
言ってはいけない、とも思った。身分が違う。明日は十五年をほどく日で、この人の母親が落ちた溝を跳ぶ日だ。俺の私事を挟んでいい日ではない。
だから、半分だけ言う。
「――明日、俺は」
声が掠れた。咳払いをして、言い直す。
「明日、俺は王国中で、あなたの背中にいちばん近い場所にいます」
風が、格納の中を抜けていく。
彼女は、しばらく何も言わなかった。それから、ゆっくりと息を吸って、まっすぐに背筋を伸ばす。あの、壇を降りてくるときの背筋である。
「存じております」
そして、少しだけ、笑う。
「――だから、怖くないのです」
◇
夜半、雨の音で目が覚めた。
工廠の宿舎の窓を叩く音。最初は指先で叩くような、遠慮がちな音だった。それがだんだん強くなり、屋根を、庇を、石畳を打ち始める。
俺は寝台の上に起き上がって、しばらくその音を聴いていた。
――雨も、な。
あの廊下の言葉が、いま初めて意味を持つ。總監は知っていたのだ。この時期の空を、あの人は工廠で三十年見てきた。雨が降れば五型は跳べない。跳べなければ、絵が濁る。
だが、絵が濁ることを怖がっているのは、あの人だけである。
俺は窓を開けた。冷たい雨の匂いが、部屋の中へ流れ込んでくる。濡れた石と、鉄と、遠くの土の匂い。
悪くない、と思う。
悪路の生存性は、熟練後席つき複座が上だ。それは自慢でも希望でもなく、規程集に書いてある事実である。書いた人間は、いつか誰かが使うと思って、その一行を消さずに残している。
◇
手帳の余白より 秋初月十四日
合いました。合った瞬間は、驚くほど静かです。何も操縦していないのに機体が歩くのです。あの人は「合わせるのが後席です」と言って、本当に二日で合わせてしまいました。心の音まで聴かれております。恥ずかしくて死にそうなのに、もう一度当ててくださいと自分から申しました。明日、王国でいちばん近い場所にいると言われて、存じております、としか返せません。お母様、わたくしは明日、あなたの落ちた溝を跳びます。怖くないと言えたのは、嘘ではありません。




