23. 脈が、揃わない
秋初月十二日。空はまだ、辛うじて晴れている。
試料室の判定が出るまで裁定は動かない。だが機体のほうは、待ってはくれない。観閲式まで三日、〈ヴェスペリーネ〉はまだ一度も火を入れていなかった。
十五年ぶりの点火である。
朝、第三格納の扉を大きく開け放った。秋の初めの風が、まっすぐ機体の足元を抜けていく。白銀と薄青の装甲が外の光を受けて、水を張ったように鈍く光る。封印庫の暗がりでこの機体を最初に見たとき、俺はこれを「眠っている」と思った。いまは違う。いまのこれは、起きる直前の顔をしている。
彼女が、前席の胸郭の縁に手を掛けて立っていた。
操縦手袋を嵌める手が、いつもより少し遅い。指を一本ずつ、順に押し込んでいく。父親が「妻に似ている」と言ったのは、この手つきのことなのだと思った。似ているものを見るのが怖くて、この人は十五年、娘の手を見ずに来たのだ。
「後席」
「はい」
「怖い、と言ったら笑いますか」
俺は、少し考えてから答える。
「笑いません。むしろ安心します。機体に初めて火を入れるとき、怖くない人間は、たいてい何かを聴き落としています」
彼女が、ふっと肩の力を抜いた。
乗り込む。胸郭に彼女、背嚢に俺。狭い後席の座に体を沈めると、いつものように世界から光が消えた。後席には窓がない。あるのは、調圧盤の目盛の並びと、伝声管の口と、足裏と背中に伝わってくる機体そのものだけである。
「接続、確認します」
「どうぞ」
伝声管の栓を抜き、圧路の弁を順に開けていく。かちり、かちり、と小さな金具の音が、暗がりに一つずつ落ちた。
「両席、繋がりました」
声を返す彼女の声が、管の中でわずかに反響する。
この言葉を、俺はもう何度も口にしている。十三番で言い、練習走で言い、査定路で言った。それでも今日は、喉の奥が少し詰まる。この機体でこの唱和が交わされるのは、十五年ぶりなのだ。前にこれを言った後席の男は、俺の祖父である。
「鋼騎士、起きます」
点火。
炉室の奥で、火打ちが鳴った。魔晶石が息を吸う音。それから――胸の下あたりで、低い脈が、一つ。
二つ。三つ。
背中に伝わってくる。十五年、石の中で微かに刻み続けていた眠り脈が、いま本物の脈拍に変わっていく。俺は覗き窓の蓋を開けて、炉の火の色を見た。
青い。
点火直後の火は青い。溜まった澱と、長く動かなかった導脈の抵抗と、冷えた鋼の全部を押しのけようとして、無理をしている色だ。ここで焦って圧を上げると、機体は必ずどこかを壊す。俺は何もしない。ただ、聴いていた。
青が、藍になる。
藍が、紫を通って、赤みを帯びる。
橙になったのは、たっぷり半刻あとだった。半刻。ずいぶん長い半刻だったが、十五年に比べれば瞬きのようなものである。
「炉、常です」
「……ありがとう」
伝声管の向こうの声が、少し湿っている。
俺は聞こえなかったふりをして、調圧盤の目盛を順に読み上げる。読み上げながら、指の先が震えているのに気づく。震えているのは俺のほうだった。
◇
試走は、査定路で行う。
泥濘路、荷担ぎの直線、階段。跳躍溝は観閲式の礼典課目なので、練習では跳ばない。三日後に、初めて跳ぶことになる。
そして、走り出して十歩で、俺は気づいた。
合わない。
脚が地面を蹴る。着地する。その前に俺は圧を送る。送るのだが、圧が届く一拍前に、もう彼女の膝が動いてしまっている。俺の圧が着地を受けるのではなく、着地したあとの膝を後ろから押す形になる。押された膝は、わずかに突っ張った。
背中に、こつん、と余分な衝撃が返ってくる。
「――後席、いまのは」
「俺の圧が遅れました。もう一度」
もう一度。また遅れる。
三度目は早すぎて、今度は膝が着く前に圧が来て、脚が浮いた。四度目、五度目。泥濘路の端で機体を止めて、俺は目盛を睨む。目盛は正常だ。導脈も炉も、健やかな脈を打っている。機体は何一つ悪くない。
彼女の腕も、悪くない。むしろ上手い。十三番のときより明らかに上手くなっている。
合わないのだ。
「……わたくしの、せいですね」
伝声管から、声が落ちてくる。
抑えた声だった。抑えているのが分かる声、というのがこの世でいちばん胸に刺さる。
「操縦が、母と違うのでしょう。この機体は母のために誂えられて、母の癖に馴染んでいます。母なら、あなたの圧に合ったはずです」
「――待ってください」
「わたくしが、母に届かないのでしょうか」
管の向こうで、息が一度、止まる。
俺は、目を閉じた。
暗い後席で目を閉じても、暗さは変わらない。変わらないが、そうすると音がよく聴こえる。炉の脈。導脈の圧の流れ。そして、前席で彼女が座り直したときの、革の擦れる小さな音。
この人はいま、十九年ぶんの何かを一度に抱えている。母を知らないまま母の機体に乗り、母と比べられ、父に見てもらえず、名簿から名を消され、それでも背筋だけは伸ばしてきた人だ。その背筋が、いま、機械の一拍ぶんのずれで折れかけている。
俺は、慎重に言葉を選んだ。機体になら、いくらでも言える。人に言うのは、いつだって難しい。
「――拍が半分、早いんです」
「では、遅らせます」
「いえ」
はっきりと言った。
「遅らせないでください」
管の向こうが、黙る。
「聴いてください。あなたの拍は、速い。速いのは、着地の前に次の一歩を見ているからです。お母上がどうだったかは、俺は知りません。だが、あなたの拍は、あなたが六年、毎日操縦桿を素手で握って作ったものだ。それを潰したら、あなたはあなたでなくなる」
「……ですが、合わなければ」
「合わせるのが、後席です」
言い切ってから、俺は自分の言葉に少し驚く。
当たり前のことだった。当たり前すぎて、今日まで言葉にしたことがなかっただけだ。祖父も、たぶん一度も言わなかったのだと思う。言わずに、ただ三十年、他人の拍に自分を合わせ続けた。
「前席の拍に、後席が合わせる。機体が前席の癖を覚えているなら、俺がその上から新しい癖を教え直します。あなたの拍に合うように、俺の圧の置き方を組み替えるんです。……時間はかかりますが、それが俺の仕事です」
伝声管が、しばらく無音になる。
やがて、小さな音がする。息を吸って、吐いて、もう一度吸う音。この人が泣くのを、俺はこれで三度目に聴いたことになる。一度目は解体命令の紙の前。二度目は父が手帳を読んだ夜。今日は、聴くだけだ。後席からは、前席の顔は見えない。
見えないほうが、いいこともある。
「……三日、しかありません」
声が、戻っていた。
「二日です。十三日と十四日を丸ごと使って、前夜から機体を休ませます」
「二日で、できますか」
「できます」
根拠は、ない。
いや――一つだけあった。この人は十四日前、大部屋で俺を「わたくしの後席」と呼んだ。あのとき俺は耳を赤くして、機体の音で誤魔化した。誤魔化した以上、それに見合う仕事をしなければ嘘になる。
「二日で、あなたの拍に合わせます。だからその二日、俺に付き合ってください」
「――はい」
返事が、はっきりしている。
その日、俺たちは日が落ちるまで走った。合わない走りを、二十本。合わないまま終えて、機体を格納へ戻し、俺は最後の唱和を口にする。
「鋼騎士、寝かせます」
炉の火が落ちていく。橙が藍へ、藍が黒へ。冷えていく鋼が、あちこちで小さく鳴った。かん、こん、と不揃いな音が、暗い格納にしばらく続く。
その不揃いな音を聴きながら、俺は思った。
脈合わせだ。
人と人のあいだにも、たぶん同じものがある。
◇
手帳の余白より 秋初月十二日
母の機体に、火が入りました。青い火が橙に落ち着くまで半刻。あの人はその半刻、何もせずに聴いておりました。急かさないというのは、あれほど難しいことなのですね。走ってみて、合いません。母に届かないのかと訊いたわたくしに、あの人は「遅らせないでください」と申しました。合わせるのが後席です、とも。わたくしは十九年、誰かに合わせて生きるものだと思っておりました。合わせてもらう側に立つのは、生まれて初めてです。怖くて、そして、少し泣きました。




