22. 公開負荷試験
夜明け前の倉庫は、川の匂いがした。
水は夏の終わりの匂いを流し切って、もう秋の、少し金気のある匂いに変わっている。石造りの壁は朝いちばんの冷えを溜め込んでいて、扉を開けると、外より中のほうが寒い。灯りが四つ。監理局の検分官と、検収科のエミールと、俺と、そして先代である。
棚のいちばん下の段。三十八年と墨書きされた、帳簿に載らない木箱三つ。
検分官は棚の番号を控え、札の位置を控え、灯りの角度まで書き留めてから、老人のほうを向いた。
「封をした方が、割ってください」
老人が、膝をつく。
骨の鳴る音がする。この人は隠居所からここまで、誰の手も借りずに歩いてきた。杖も断ったという。十五年前に自分の判で捺した印を、自分の指で割るまでが仕事だと決めているのだと思う。
節の太い指が、蝋の割れ目をゆっくりとなぞった。
十五年ぶんの蝋は色を失い、縁から細かくひび割れている。爪の先で押すと、乾いた音を立てて、あっけなく割れる。あっけなさすぎて、俺は少し呆然とした。十五年、この薄い赤黒い層が、真実の全部を押さえていたのだ。指一本で割れるものが、指一本で割られないまま十五年経つ。物のせいではない。割る気になる人間が、いなかっただけである。
中身が、灯りの下に出た。
継手が二十本あまり。同じ形、同じ大きさの鋳造の頭が、藁に埋もれて並んでいる。灯りを当てると、正規の鋳肌に差すはずの青みがない。灰に濁りを溶かしたような、光を返さない色だ。俺は指を後ろで組んだまま、最後まで手を出さなかった。触らずに済ませるのが、今日の俺の仕事である。
検分官が一本ずつ持ち上げて縁の刻印を読み上げ、エミールが改修台帳の写しと突き合わせていく。
番号が、合う。
十五年前に〈ヴェスペリーネ〉の右脚へ入った一本と、同じ鍋から出た兄弟たちだ。継手は綿を敷いた箱へ移され、監理局の公印で封をし直された。預かり札は三部。監理局と、検収科と、請求人の手元へ一部ずつ。
「持ち出しの記録も、これで通ります」
検分官が言い、老人が深く頭を下げる。
その背中に、俺はどう声をかけたものか分からずにいた。ありがとうございます、は違う。この人は感謝されるためにここへ来たのではない。結局、俺が言えたのはこれだけである。
「寒かったでしょう。上着を」
老人は少し驚いた顔をして、それから、初めて笑う。
◇
公開負荷試験は、その日の午前、工廠の試験場で行われた。
試験機というのは、要するに巨大な万力である。
鋳鉄の門型の枠に油圧の柱が二本立ち、上から下へゆっくりと圧を掛けて部品を潰す。鋼騎士の関節が一生かかっても出さない力を、この機械は半刻で出す。人が扱う機械の中で、これほど無愛想なものを俺は他に知らない。試験機に美しさはない。ただ、嘘をつかない。
傍聴席には、思ったより人が入っている。
監理局、検収科、新造科、修繕科の古株たち。梯子組のヤンが胴間声を殺して最後列に座っている。学院の制服も何人か見える。そして最前列に――彼女がいた。
背筋を伸ばして、膝の上に、祖父の聴診棒を抱いている。
樫の柄の、あの古い道具である。今日の試験に道具は要らない。聴くべき音はもう、耳ではなく機械が出す。それでも彼女はそれを持って来て、両手で膝の上に置き、まるで小さな子供を抱くように座っている。
俺は、目を逸らした。逸らさないと、余計なことを考えてしまう。
試験は、三本立てである。
一本目、比較用の現行正規品。二本目、死蔵在庫の継手。三本目、修復に用いたものと同じロットの現行正規品――こちらは折るためではなく、規格負荷に耐えることを証明するためだ。跳躍課目の事前手続きに算入される。
「一本目、加圧開始」
係官の声。油圧の唸りが、低く床を這ってくる。
規格負荷の一割、二割。目盛の針が、ゆっくり右へ倒れていく。鋳物というのは、潰されるとき小さな悲鳴を上げる。かすかな、紙を裂くような音だ。三割、五割。七割。九割。
十割。
規格負荷を超えても、正規品は折れなかった。十二割で係官が止め、部品を外す。ひび一つ入っていない。傍聴席から、ほうっと息の抜ける音がした。
「二本目」
係官が、封を割ったばかりの箱から一本を取り出す。
朝の倉庫で見たあの鈍い色が、試験場の高窓から差す光の下でも同じように鈍い。検分官が預かり札の番号を読み上げ、立会人が声を返し、部品が万力の顎に据えられた。
場内が、静まる。
油圧の唸りだけが残った。一割、三割。俺は自分の呼吸が浅くなっているのに気づいて、意識して長く吐いた。五割。
六割。
ここで――と思ったところを、針は通り過ぎる。
肚の底が冷えた。折れなければ、何も証明されない。折れなければ、祖父はこのまま「見立てを誤った男」で終わる。折れてくれ、と俺は心の中で言った。人が作った物に向かって折れてくれと願うのは、職人としてはたぶん最低の願いである。
七割。
乾いた、短い音がした。
拍手のような、枯れ枝を膝で折ったような、一度きりの音。それだけだった。針が跳ね返り、油圧が抜け、万力の顎の間で、継手が二つになっている。
誰も声を上げない。
俺は、自分の膝が震えているのに気づいた。悔しさでも、喜びでもない。ただ、十五年前と同じことが、いま目の前でもう一度起きたのだ。あの日は人が乗っていた。今日は乗っていない。それだけの違いで、片方は葬式になり、片方は証拠になる。
照合が始まる。
保全済みの実物――十五年前に〈ヴェスペリーネ〉の右脚から外され、封蝋の中で眠っていた継手。そして、いま折れたばかりの兄弟。二つの破断面が、灯りの下に並べられた。
鬆。そして、色の違う金属の縞。
同じだ。同じ角度で灯りを当てると、同じ位置に、同じ流れ方で汗の筋が浮かぶ。十五年隔てて折れた二つの断面が、まったく同じ嘘の顔をしていた。
「判定は、工廠試料室にて行う」
検分官が宣言し、二つの断面はそれぞれ封をされて運ばれていく。
俺の口からは、断定は一つも出ていない。今日も、俺は見えるところまでしか言わなかった。だがそれでいい。断じるのは俺ではなく、この二つの縞である。
◇
三本目が、万力の顎に据えられた。
修復に用いたものと同じロットの、現行正規品である。これは折るための一本ではない。跳躍課目に出る機体の継手が規格負荷に耐えることを、公開の場で示すための試験だ。証明の向きが、さっきまでと逆になる。
「加圧開始」
油圧が唸る。五割。八割。十割。
針が規格負荷を通り過ぎ、そこから先は余分の領域に入っていく。十一割。十二割。俺は自分の指が、膝の上で勝手に締め歌の拍を刻んでいるのに気づく。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。この継手を締めたのは、俺の手である。
「十三割、保持」
係官の声に、場内が息を詰めた。
万力の顎の間で、継手は何も言わない。悲鳴も、紙を裂く音も出さなかった。健やかな鋳物というのは、潰されている最中でも黙っているものだ。
「――耐荷、確認。証明書を発行します」
検分官が、機体検査証の最後の一欄に朱肉を押す。
こつん、と乾いた音が一つ。
二十四番目の枡が、埋まる。あの空欄を見た日から、十二日である。俺は胸の内側で、何かがゆっくり降りていくのを感じた。これで、走れる。これで、跳べる。
◇
証言の刻限になった。
エミールが立ち上がる。眼鏡を外し、それを胸のかくしにしまってから、彼は前に出た。目が悪いはずなのに、外したのだ。何かを見ないためではなく、たぶん、逃げ道を一つ減らすために。
「ギルドナー商会三男、エミール・ギルドナー。検収科技師として、ではなく――家の者として申し上げます」
声が、少しだけ震える。
この男の早口を、俺はもう何度も聞いている。震えるのは、初めてである。
「三十七年夏末月、当家は工廠へ納めた継手一ロットについて、検品を省略しました。省略印の写しは検収科が正規に照会し、記録として提出済みです。事故の翌年、当家は残余を回収し、その回収記録を帳簿から抹消しました。私はその消し痕を、十七の年に見ております」
傍聴席が、ざわりと動く。
「これらは、当家の落ち度です。誰かに命じられたものではありません。……以上を、家の名で証言します」
彼が礼をして席へ戻る途中、最後列の先代が立ち上がって、孫に向かって深く頭を下げる。
誰も笑わなかったし、誰も囃さなかった。工廠というのは、そういう作法を知っている場所である。
◇
「――再審の裁定は、観閲式の後とする」
監理局の首席検分官が、閉会を告げる。
「本日の実証は記録された。裁定書の作成には、試料室の判定を要する。式典の日程に鑑み、読み上げは十五日以降」
五日、待たされる。
肩の力が、少し抜けた。悔しくないと言えば嘘だが、今日一日で十五年ぶんが動いたのだ。あと五日くらい、祖父は待てるだろう。あの人は、十五年待ったのだ。
人が捌けていく廊下で、彼女が追いついてきた。
聴診棒を、両手で差し出してくる。
「お返しします。……勝手にお借りして」
「いえ」
「重いのですね、これ」
彼女が、少し笑った。
「膝に置いていたら、だんだん重くなって。爺やはこれを毎日持って歩いていたのだと思ったら、腕より先に、胸のほうが痛くなりました」
俺は受け取って、柄を握る。
彼女の体温が、樫の木に残っていた。三十年ぶん人の手に磨かれた柄は、いつも少しだけ他人の熱を抱えている。祖父の熱を、俺はもう知らない。だが今日、この柄はたしかに温かい。
それを言葉にできる自信がなかったので、俺は道具袋の口を開けて、いつもの場所へそれを収めた。
◇
廊下の角で、太った影とすれ違う。
總監ホルガーである。この人は今日、一言も発言していない。傍聴席のいちばん端で、腕を組んだまま試験を最後まで見ていた。すれ違いざま、足を止めもせずに、独り言のような声が落ちてくる。
「祝いの席に、古い血の話は要らん」
俺は立ち止まった。
「――雨も、な」
言い残して、影は行ってしまう。
雨。
なぜ雨なのか、そのときの俺には分からない。ただ、廊下の高窓から見えた空の色が、朝より少し重くなっていることに、そのとき初めて気づいた。
観閲式まで、あと五日である。
◇
手帳の余白より 秋初月十日
折れました。七割で、乾いた音が一つきり。人が大勢いるのに、誰も声を上げなかったのです。あの静けさの意味を、わたくしはこの先ずっと忘れないと思います。膝に爺やの聴診棒を抱いておりました。重いのです。この重さを毎日持って歩いた人がいて、その孫が今日、断定を一つも口にせずに証明をやり遂げました。断定しない人の言葉が、どうしてこんなに強いのでしょう。お母様、あなたが最後に信じた後席の家は、こういう家でした。




