21. 娘を、頼む
朱の線を見た夜から、八日が過ぎている。
あの晩、掲示板の前から動けずにいた俺の袖を、彼女が引いた。冷えた指である。帰りましょう、と言ったその声が、まるで自分に言い聞かせるような響きだったのを覚えている。二人とも、悔しいとは口にしなかった。口にしたら、それが本当のことになってしまう気がしたのだ。
以来、俺は紙ばかり書いている。
異議の申し立てを三度出して、三度とも「所定の様式にあらず」で戻ってきた。様式を直して出せば、今度は「提出権者にあらず」である。俺は請求人であって、出走者でも保護者でもない。規程というのは、通したい者には梯子で、通したくない者には壁だ。同じ条文が、立つ場所で顔を変える。
祖父も、こうやって蹴られたのだろうか。
そう思うと、指先が冷たくなった。十五年前、あの人が紙を出せなかったのは、出す気がなかったからではない。出しても、どこにも届かない造りになっていたからだ。俺はいま、その造りの中を手探りで歩いている。ただ一つ違うのは――あの人には隣に誰もいなかったが、俺の隣には、記録簿を抱えた人がいることである。
朝の修繕科は、それでも動く。
油の匂いと、鉄を叩く音と、白髭の怒鳴り声。この科の空気は、外で何が起きていても変わらない。鋼騎士は理不尽で止まったりしないし、機体が止まらなければ、職人の手も止まらない。腹の立つ日ほど関節はよく仕上がる、というのは下町の言い伝えだが、あれは本当だと思う。
「耳。ちょっと来い」
白髭が、書類の束を作業台に放った。
「總監サマの理由書だ。ようやく写しが回ってきた」
拾い上げて、読む。文面は短い。――当該機体は長期封印より復した特殊事例につき、その整備状況に鑑み、出走を認めがたし。
「整備状況」
声が、低くなった。自分の声とは思えないほど低い。
「そうだ。要するにな、おまえの仕事が信用ならんと、紙に書かれたわけだ」
白髭が髭の奥で唸る。目だけが、じっとこちらを見ていた。
肚の底が、熱くなる。
だが、その熱がいちばん高いところまで上がりきる前に、頭のどこかが冷たく回った。整備状況。整備状況だ。政治でも、家格でも、慣例でもない。よりによって、この工廠でいちばん俺の土俵に近いところに、あの人は理由を置いている。
「親方。これ、こっちの土俵じゃないですか」
「気づいたか」
白髭が、初めて笑う。
「政治で殴られたら、こっちに手はない。だが整備で殴られたなら、殴り返す道具はおまえの手の中にある。……ホルガーサマは、慣例を折る理由に困って、いちばん硬いところを選んじまったのさ」
その日から、記録の作り直しが始まった。
骨格の寸法、締結の順序と拍数、導脈の気密、炉室の魔晶石の色と眠り脈の間隔。検分と修復の三十二日ぶんの記録を、日ごとに整理して綴じ直す。彼女は学院が引けるとすぐ来て、俺の走り書きを清書していった。この人の字は、まっすぐで、余白の取り方が美しい。字を見ていると、書いた人の背筋が見える気がする。
その背筋が、ここ数日、少しだけ落ちている。
気づいたのは、袖口だった。制服の左袖の縫い目が、細く綻びている。翌日は綻びが繕われていて、その糸の色が、生地と微妙に合っていない。屋敷の女中の仕事ではない。この人が、自分で縫ったのだ。
「……学院では、何か言われますか」
筆が、止まる。
「何も」
「そうですか」
嘘だ、と思ったが、追わなかった。追えば、この人は本当のことを言ってしまう。言えば、俺は自分の無力さを正面から見ることになる。それが怖かった――と、認めるまでに数呼吸かかった。
沈黙が、格納の高い天井に吸われていく。夕方の光が、外れた装甲板の縁で薄く白く光っている。
「……名簿の紙を、破ろうとした方がおりました」
やがて、彼女がぽつりと言う。
「学院の、下級生です。わたくしのために怒って、掲示の前で泣いて。止めたのは、わたくしです。破れば、あの子が退学になりますから」
筆を持つ手が、白い。
「悔しかったのは、破れなかったことではありません。……止めながら、心のどこかで、破ってくれと思ったことです。わたくしは、そういう女です」
俺は、なんと言えばいいのか分からない。
機体なら分かる。どこが緩んでいて、どこを締めればいいのか、指が教えてくれる。だが人の心は、聴診棒を当てても音がしない。俺にできたのは、清書の束を彼女の手からそっと引き取って、代わりに油の染みた自分の帳面を渡すことだけだった。
「こっちを頼みます。汚い字ですが」
彼女が、少しだけ笑う。
その笑い方が、下町の飯屋で見たものと同じだったので、俺の胸のあたりが勝手に温かくなった。締めるべき場所は締まっている。ならばあとは、俺の仕事の紙で殴り返すだけだ。
◇
夏末月二十八日、監理卿の招集がかかる。
工廠の大部屋に、監理局の検分官、検収科、修繕科、そして總監ホルガーが並ぶ。上座には黒い外套。壁際の隅に、俺と、学院の制服の彼女が立った。
卓の上に、修復記録の綴りが積まれている。夏中月十日の開封から数えて三十二日ぶん、指の厚さで三つ。
「本件について、監理卿の権限で、判断を示す」
侯爵の声は、いつもの低温だった。
「出走名簿からの抹消理由は、当該機体の整備状況である。整備状況とは、記録と検査によって示される事実であって、印象ではない。よって、事実を検める」
検分官が、綴りを開いていく。
紙の擦れる音だけが、しばらく続いた。締結の拍数を書いた頁で、検分官の指が止まる。それから顔を上げて、俺のほうを見た。
「……この締め跡の記録は、誰が」
「俺です。締め歌の拍を、そのまま数字に落としました」
「拍で締める工房は、いまどきどれだけ残っている」
「下町なら、まだ半分は」
検分官は、何も言わずに次の頁を繰った。ただ、繰り方が少し丁寧になった気がする。技師というのは、そういうところで返事をする生き物である。
「總監」
侯爵が、ホルガーを見る。
「この記録のどこに、出走を認めがたい事実があるか。指してもらいたい」
ホルガーは、答えなかった。
太った指が卓の縁を二度叩き、それから止まる。この人は真相を知らない。知らないまま、絵の都合だけで線を引いた。悪人ではないのだと思う。ただ、絵の外にいる人間の名前を、数えたことがないだけだ。
「――記録に、瑕疵は認められません」
検分官が、綴りを閉じる。
「名簿への復帰を、監理卿の名で公示する」
侯爵が短くそう言うと、大部屋の空気が、ふっと軽くなる。
その軽くなった空気の中で、俺は妙なことを考えていた。この人は昨夜も眠っていないのだろう、と。外套の肩に、糸くずが一本ついている。あの晩、格納庫で崩れた背中を思い出す。凍っていた人が溶けたあと、いちばん最初にやったのが、娘の名の上の朱を消すことだったのだ。
◇
午後は、機体検査証の発行手続きだった。
書式というのは、それ自体が一つの機械だと俺は思っている。
縦長の厚紙に、欄が二十四。骨格、装甲、腰環、軸受、継手、導脈、炉室、魔晶石、制動、締結、伝声、調圧盤――鋼騎士の体を上から下へ順に解いていく順序で並び、それぞれに「検」の一字と、検めた者の印を捺す枡がついている。書式の並び順が、そのまま整備の作法になっているのだ。誰が最初にこれを作ったのかは知らないが、機体を分かっている人間の仕事である。
検分官が朱肉を押し、一つずつ捺していく。
こつ、こつ、と乾いた音が続く。骨格に検。装甲に検。腰環に検。軸受に検。俺の三十二日が、朱色の四角になって並んでいく。継手の欄で、検分官の手が一度止まった。
「現行正規品。検収は検収科――ギルドナー技師の印がありますな」
「はい」
エミールが短く答える。眼鏡の奥の目が、朱の枡を見つめていた。この男の家の刻印が、十五年前は同じ欄を素通りしたのだ。いま彼は、同じ欄に自分の名を置いている。それがどれほどの重さか、たぶんこの部屋で俺だけは分かる。
二十三の欄が埋まり、最後の一つが空白のまま残った。
――負荷試験成績。
「これは、埋まりませんな」
検分官が言う。
「修復に用いた継手の耐荷証明が要ります。跳躍課目に出るなら、規程です」
「走行許可のほうは」
エミールが規程集を開いた。
「条件別に二種。晴天と、雨天です。雨天の跳躍は、単座機には認められません。自律弁は乱れを絞ることしかできず、濡れた路面では絞りが重なって出力が枯れる。……ただし複座には、別の条項があります」
彼が、指で行をなぞる。
「熟練後席による手動調圧を係数として認める。つまり、後席が乱れる前に圧を作れるなら、雨でも跳べる。……この条項は、単座化のあと一度も使われていません。書いた人間は、たぶん、いつかまた誰かが使うと思って残したのでしょう」
書いた人間、という言葉が、胸のどこかを小さく叩いた。
残す、というのはそういうことなのだ。使われるかどうか分からない条文を、それでも消さずに置いておく。祖父が誰にも見せない拓を取り続けたのと、たぶん同じ形の意地である。
「後席の氏名を、ここに」
検分官が、証書の下段を指した。
筆を取ろうとした俺より先に、彼女が半歩前に出る。
「わたくしから申し上げます」
そして、父のほうを真っ直ぐに見る。
「ニクラス・カルデン。わたくしの後席です」
部屋が、静かになった。
わたくしの機付ではない。雇い入れた技師でもない。わたくしの後席、である。この国で後席というのは、前席が命を預ける相手を指す言葉だ。学院の首席が、宮廷の大部屋で、下町の修理屋を父の前でそう呼んだ。
耳の先が、熱い。
情けないことに、俺はそれを機体の音で誤魔化した。格納のほうから微かに、締め上げた腰環が温度で鳴る音がしている。かん、と高く一つ。あの音が今日に限ってやけに大きく聞こえたのは、俺の耳がおかしくなっていたからだ。
◇
散会のあと、廊下で呼び止められる。
黒い外套が、窓の外を見ている。夕方の工廠は煙の色をしていて、その向こうに秋の初めの空が薄く伸びていた。
「カルデンの」
「はい」
「あれは、妻の機体だ」
振り返らないまま、侯爵はそう言う。
「十五年、わたしは壊す側に立っていたのだ。壊すつもりで封じたのではない、と、あの夜おまえに言われて、初めてそう気づいた。……おかしな話だな。自分の手のしたことを、他人に教えられた」
「機体は、覚えていました」
「そうか」
短い沈黙のあと、この人はようやくこちらを向く。
冬の湖の色が、まっすぐ俺を見ていた。娘と同じ色だ。同じ色で、まったく違う疲れ方をしている目である。
「頼めるか、カルデンの」
「――はい」
「娘を、頼む」
言葉に重みが乗る。
機体を頼む、ではない。走行を頼む、でもなかった。この人は監理卿としてではなく、たぶん十五年ぶりに、ただの父親としてそれを言ったのだ。返す言葉を探して、探しきる前に、口が勝手に動いていた。
「あの機体の膝は、俺が受けます」
言ってから、これでは答えになっていないと思う。
だが、なっていた。侯爵が一度だけ肯いて、それきり何も言わずに歩いていったからである。
廊下に一人残って、俺は自分の手を見た。
油の染みた指。前腕の火傷痕。祖父に似ている、と、あの夜言われた手だ。この手が十五年前に受けそこねたものを、今度は受ける。誰かに頼まれたからではない。頼まれる前から、俺はもう決めていた。あの人の膝は、二度と折らせない。あの人が着地するとき、地面よりも先に、俺の圧がそこにある。
それは技術の話であって、同時に、たぶん技術の話ではなかった。
◇
期日は、その晩のうちに決まる。
公開負荷試験、秋初月十日。工廠試料室と監理局の立会いのもと、証拠の物を人前で折る日である。
そして観閲式は、秋初月十五日。
五日前だ。十五年をほどく紙と、十五年ぶりに跳ぶ機体が、たった五日のあいだに並ぶ。
◇
手帳の余白より 夏末月二十八日
わたくしの名が、名簿に戻りました。戻したのは父です。あの人は「殴り返す道具は手の中にある」と申しました。三十二日ぶんの記録を三つの綴りにして、印象ではなく事実で押し返したのです。大部屋で、わたくしは初めて父の前であの人を「わたくしの後席」と呼びました。声が震えるかと思いましたが、震えません。震えたのは、呼ばれたご本人のほうです。耳の先が赤くなるのを、わたくしは見てしまいました。お母様、あの方は自分の顔だけは聴けないようです。




