20. 先代の封
夏末月二十日、隠居所は町外れの丘の中腹にある。
王国じゅうの鋼騎士に鋳物を納めてきた家の権勢からすれば、驚くほど小さい。石垣に蔦が這い、庭には梨の木が一本。門を叩くまでもなかった。手を上げた拍子に、扉が内から開く。
老人が立っていた。
背は低く、肩は落ち、頬はこけている。だが手だけが違った。指の節が太く、爪が平たい。この人は帳場の人であると同時に、鋳物の人だったのだ。
「お待ちしていました。……三人とも、どうぞ」
通されたのは、庭に面した板敷きの部屋だ。
箱は、ここにはない。倉庫の棚のいちばん下の段に、封をされたままだ。動かしてよい物ではないと、この人にも分かっているらしい。それだけで、今日の話の半分は済んでいる。
挨拶も名乗りもそこそこに、老人は板の間に手をついた。
「三十七年の夏でした」
庭のほうへ目を向けたまま、話し始める。
「観閲式の前でしてな。工廠から補修部品の急ぎが山ほど来ました。四十年制式の開発と重なって、三型の継手を回す鍋が足りない。そこへ鋳造所の主が、新しい配合を持ち込んできたのです。安く、早く出せると」
「試したんですか」
「試しました。試験の一本は、通ったのです」
老人の口が、わずかに歪む。
「……ただ、上がってきた品の色が、私の知る色ではない。二十年鋳物を見てきた目が、これは違う、と言っておりました。目が言うだけで、証拠はない。検めれば三日、納期は明後日でした」
彼女が、膝の上で手を握るのが分かる。
「省の印を、私が捺しました。誰かに命じられたのではありません。私が、私の判で捺したのです。後日改めて検める、という建前でしたが、その気が本当にあったかどうか、いまとなっては自分でも分かりません」
それきり、しばらく誰も口をきかない。
庭で、梨の葉が鳴っている。この静けさの中に、十五年前の夏があるのだ。納期に追われた老人と、鍋の足りない鋳造所と、脈の濁りを聴き取った祖父と。誰も殺すつもりのなかった人間が並んで、その列の一箇所だけが、検められないまま繋がってしまった。
「事故のあと、残りを全部引き上げました」
老人が続ける。
「鋳造所は畳ませました。主はもう、この世におりません。回収の記録は、私が消させました。……ですが、物は捨てられませんでした」
「なぜです」
訊いたのは俺である。
老人は、初めて顔を上げた。落ちくぼんだ目が、まっすぐこちらを見る。
「捨てれば、終わってしまうからです。終わらせたくなかった。……いつか誰かに裁かれるために、私はこれを取っておいたのです。毎年、封を確かめに倉庫へ行きました。割れていないのを確かめて、ほっとして、それから吐き気がする。そういう十五年でした」
「提出していただけますか」
「いたします。証言も」
即答だった。この一言のために、この人は十五年、箱の番をしていたのだ。
老人は懐から、小さな真鍮の印を出して板の間に置いた。
丸に、横棒が一本。倉庫の暗がりで見たのと同じ形である。印面の縁は蝋で目詰まりし、十五年ぶんの朱が溝の底に黒く固まっていた。節の太い指が、その溝をゆっくりとなぞる。壊した物の面倒を見るような、墓石に触れるような手つきだ。
「ただ、箱はまだ動かしません」
俺は、手順を口に出して確かめた。
「監理局の検分官の立会いで開封し、縁の刻印を改修台帳と突き合わせ、綿箱へ移して公印で封をし直し、預かり札を三部。そこまでやって初めて、あれは公開の場で『倉庫に十五年封じられていた同じ鍋の兄弟』として口をきけます」
「割るのは、私の手でよろしいですか」
老人が、真鍮の印を握る。
「十五年ぶんの蝋です。誰かに割られるより、この指で割りとうございます」
「書き添えます」
俺は、頭の中で祖父の手帳の三行を数えていた。交換を進言す。受理さる。異音なし。あの三行のどこにも、商会を責める字はない。祖父は誰が省いたのかを知らないまま、章を返して下町へ帰ったのである。
言うべきことを、一つだけ言った。
「祖父は、あなたを名指ししませんでした」
老人の肩が、跳ねる。
罵倒よりよほど効いたのが、見て分かった。この人は十五年、名指しされるのを待っていたのである。待っている間だけ、罰はまだ来ていないという理屈が立つ。名指しがないと知った瞬間、逃げ場の壁が先に消えるのだ。
「……そうですか」
絞り出すような声だった。
「そうですか。あの方は、そういう」
言葉にならず、老人は板の間に手をついたまま動かなくなる。
俺は責めない。責めても鍋の中身は変わらない。この人を吊るしたところで、祖父の章は戻らないのだ。戻すのは、裁定の紙のほうである。
帰り道は、二人とも黙って歩く。
丘を下りる道に、夕日が長い影を作っている。エミールは祖父のそばに残った。孫と祖父の話が、まだあるのだろう。俺は自分の足音を聞きながら、肚の中の重さをどう名づけたものか、迷っていた。
その沈黙を破ったのは、彼女である。
「あなたの背中は、怒りより先に悲しむのですね」
足が止まる。
「怒っておいでだと思っていました。あの部屋で。……でも、後ろから見ていて分かったのです。肩が上がるのではなく、下がります。あなたは、あのご老人の十五年まで持ってしまう」
「……持ちたくはないんですがね」
「持ってしまうから、機体が直るのだと思います」
夕日が、彼女の睫毛の先で光る。
この人はいつも、俺が自分でも気づいていない場所に手を当てる。聴診棒も使わずに、である。
工廠に戻ったのは、日が落ちてからだ。
中庭の掲示板に、観閲式の出走名簿が張り出されている。機体名と乗り手の名が、順に。〈ヴェスペリーネ〉の欄を探して、俺は足を止めた。
名が、消えている。
機体名の上に、朱の横線が一本。乗り手の欄も同じである。フレデリカ・アイゼンガルテンの名の上を、乾ききっていない朱が真横に貫いていた。
線の脇に、決裁の印が一つ。
總監、ホルガー。
◇
手帳の余白より 夏末月二十日
わたくしの名が、線で消されておりました。掲示の前で、あの人が何も言わずに立っています。悔しさより先に来たのは、掲示板の朱がまだ乾いていないという事実でした。ついさっき、誰かがあの線を引いたのです。人の手が引いたのなら、人の手で消せます。爺やの紙も、母の機体も、そうやって十五年、人の手で伏せられてきたのでしょう。もう伏せさせません。線の引き方を知っている人が、この家に一人おります。父です。




