19. 請求人、ニクラス・カルデン
「十五年、簞笥の底で寝かせておいた」
ドナートは紙を机の上で滑らせ、俺の手元へ寄越した。
「……なぜ、今日なんです」
「昨夜、監理卿が屋敷に戻らず工廠へ寄ったと聞いてな。式次第の公示の日に、娘御が満座で出走を宣言したとも聞いた。潮というのは、こういうふうに変わる」
老人は、紙を指で押す。
「言ったぞ。写しは両刃だと。単独で出せば、進言して交換までさせた男が壊した、という筋書きの補強に化ける。……だが台帳の番号と省略印が並べば、話は逆さになる。刃の向きを変えるのは、隣に何を置くかだ」
その日と翌日、俺は請求書を書き続けた。
証拠の鎖を、順に並べていく。まず工廠改修台帳の、交換実施の記録と部品ロット番号。次に、受付印つきの進言書の写し。それから、監理局が封蝋で保全し、試料室の判定を待っている破断継手そのもの。最後に、商会納入台帳の、当該ロットの検品省略印。
四つ並べて、はっきりした。
足りないのは、鍋の中身を語る物である。折れた一本は「折れた」としか言わない。折れていない同じロットの兄弟を、公開の場で折って見せて、断面の縞が同じだと示す――そこまで行って、やっと嘘は嘘として立つ。
書き出しは、店の納品書と同じにする。
見たことを、見た順に。祖父の手帳の三行と同じ書き方である。文の最後に、請求人の欄があった。俺はそこに、自分の名を書く。ニクラス・カルデン。カルデンの姓を、この夏、二度目に紙へ置くことになる。一度目は合格の掲示だった。二度目は、返上された章を取り返しに行く紙である。
夏末月十五日、監理局へ提出した。
受理の判は、その場で押される。条件も、その場で告げられた。――新証拠の実証をもって審理を開く。実証は、公開の場における破断の再現とする。
ドナートが条文を待った十五年に対して、俺が紙一枚を待ったのは半刻である。半刻で足がこんなに冷えるのだから、あの老人の十五年はどれほど冷えたのだろう。
その足で、エミールと商会の倉庫へ向かった。
倉庫は川沿いの石造りで、中は昼でも暗い。番号を打った棚が奥まで続き、埃と、鉄と、麻袋の匂いがする。王国じゅうの鋼騎士の脚を支えてきた鋳物が、ここから出ていったのだ。エミールは灯りを掲げ、迷いなく最奥の棚へ進む。家の者の足である。
いちばん下の段に、木箱が三つ。
帳簿にない箱だという。棚札には番号すらなく、代わりに墨で年だけが書かれていた。三十八年。事故の翌年、回収の記録が消された年である。
箱の蓋に、封蝋が落ちている。
灯りを近づけると、赤黒く固まった蝋の上に印影がある。商会の紋ではない。丸に一本の横棒を渡した、素っ気ない私印だった。
「先代――私の祖父の印です」
エミールの声が、石壁に低く響く。
「商会の物であっても、この封を割る権限は当主にも三男にもありません。帳簿に載らない箱を出せるのは、封をした本人だけです」
蓋の隙間から、中身の頭が覗いている。
継手だ。同じ形の、同じ大きさの、鋳造の頭が並んでいる。灯りを当てると、その色が正規品と違って見えた。正規の鋳肌は灰の中に青みが差すのだが、この色は鈍い。灰に濁りを溶かしたような、光を返さない色である。手を伸ばしかけて、俺は指を止めた。触れば、この物の言い分が濁る。十五年ぶんの埃の上に、俺の指紋を足す訳にはいかない。
鍋の中身が、ここにある。
封を割れるのは、たった一人だけだ。
外へ出ると、川の匂いがした。日が傾いて、水面が銅色に光っている。彼女は倉庫の前で待っていた。中には入れない。商会の私物を検める場に、侯爵家の娘を立ち会わせる訳にはいかないからだ。
「……あなたを、巻き込んでいる」
思わず、口が滑る。
「祖父の代の話です。あなたの家の傷まで開けて、あなたの学院の時間まで使わせている」
彼女は、川を見たまま答えた。
「巻き込まれたのは、母の代からです」
振り向いた目が、真っ直ぐこちらを向く。
「あなたが来る前から、わたくしはあの機体の娘でした。あなたは巻き込んだのではありません。手を貸してくださっているだけです。……間違えないでくださいませ。ここで頭を下げられると、わたくしの居場所がなくなります」
返す言葉がない。この人はいつも、俺が用意した謝罪の前に立って、それを崩してしまう。
隠居所へは、その日のうちに書状を出す。
返書が届いたのは、翌々日である。短い一行だった。
二十日、隠居所にて待つ。
署名はない。代わりに、紙の隅に朱が捺してある。丸に、横棒が一本。倉庫の暗がりで見たのと、同じ印だった。
◇
手帳の余白より 夏末月十七日
あの人が、請求人の欄に自分の名を書いたのです。書くところを、わたくしは横で見ておりました。筆が一度だけ止まり、それから一息に。ニクラス・カルデン。合格の掲示に載った姓と同じ字なのに、まるで違う重さの字に見えます。倉庫の前では、巻き込んでいる、と謝られました。腹が立ちます。この人はどうして、自分の側にわたくしがいる理由を、いつも自分の落ち度に数えるのでしょう。お母様、爺やもそういう人でしたか。




