18. 侯爵が手帳を読む夜
父娘が向かい合うところに、他人が居合わせるものではない。
俺は工具を置き、出ていく口実を探した。だが監理卿は敷居を跨いだところで足を止め、こちらへ短く言う。
「そこにいろ、カルデンの」
命令の声である。逆らう理由も、逆らう身分もない。
侯爵は、機体の三歩手前まで来て止まる。
それ以上、近づかない。鉄に触れない男だと、視察の日に思ったことを思い出す。だが今夜のこの止まり方は、嫌悪の止まり方ではなかった。近づけないのだ。灯りは作業台の一つきりで、白銀の鋼騎士の胸に、三人ぶんの影が長く伸びている。三つの影の足元に、二冊の手帳が置いてあった。
「……ずいぶん、開けたな」
「骨組から炉室まで、全部開けました。導脈は総取り替え、継手は現行の正規品です。記録は毎日、検収科へ回しています」
「壊れていたか」
「いえ。石は澄んでいましたし、骨に歪みもありません。よく作られた機体です。……封じるとき、香を焚かれましたね」
外套の肩が、わずかに動く。
「胸郭の内側に、匂いが残っていました。壊すつもりの人の仕事ではありません」
長い沈黙があった。
炉の眠り脈が、静かに刻んでいる。この人が黙っている間、機体のほうが喋っているような気がする。
「焚いたのは、わたしだ」
低い声である。
「あの日、妻を運び出したあと、誰も入れずに一晩そこにいた。香を焚いて、封をして、錠を三つ掛けてな。……そして十五年、一度も開けさせなんだ。開ければ、あの日の匂いがすると思っていた」
「今日は、油の匂いしかしません」
「そうだな」
侯爵が、初めて娘のほうを見る。
「フレデリカ。おまえが操機科へ入ると言ったとき、わたしは反対した。理由を訊いたな。答えなかった。……鉄が人を殺すからだと、おまえは思っただろう」
「違うのですか」
「違わん。だが、それだけではない」
言葉が、途切れた。規程の文を読むようにしか動かない口が、今夜は規程にない文を探して詰まっている。
「おまえが機体に乗るときの背中が、妻に似ていくのだ」
彼女の肩が、震える。
「顔ではない。声でもない。乗り込むときの背中と、手袋を嵌める手の順が、あの女と寸分違わん。……見ると目を逸らす癖がついてな。逸らしているうちに、娘の顔まで見なくなった。それだけの話だ。愚かな話だ」
彼女が、足元の手帳を拾う。
母の手帳である。表紙は擦り切れ、角が丸くなっていた。侯爵が封じた妻の遺品の中で、これ一冊だけが娘の手に残っている。父に見せずにきたのは、見せればこれも封じられると思っていたからだ。
「お父様。これを」
差し出す手が、震えている。
侯爵は受け取らない。しばらく、動かなかった。
それから――――鉄には触れない手がそっと伸びて、手帳を受け取る。
頁を繰る音がした。
乾いた紙が、一枚、また一枚。ある行で、その音が止まる。侯爵の指が、文字を押さえていた。俺の位置からは読めない。どの行かは、分かる。彼女が、口の中で唱えるように言ったからである。
「今日も右脚が拗ねる。ヨルゲンが叱ると直る。妬ける――」
監理卿が、崩れる。
膝からではない。声からでもない。背骨のどこか一節が外れたような崩れ方である。外套の肩が落ち、頭が下がり、手帳を持つ手が、その頁を胸に押しつけた。低い、獣のような息が一つ漏れる。十五年ぶんの何かが、そこから抜けていく音だった。
彼女が父に駆け寄り、その背に手を当てる。
俺は、目を伏せた。見てはいけないものを見ている。だが、この人は俺を残らせた。理由は分からないが、たぶん――証人が要ったのだ。
やがて侯爵は顔を上げ、外套の袖で乱暴に目を拭って、こちらを見る。
「カルデンの。裁定の席に、わたしはいた」
声が戻っている。
「おまえの祖父は、一言も抗弁せなんだ。ただ、これだけを繰り返した。アデルハイト様の操縦に、非はない。……わたしはあれを、罪を認めた男の言葉だと聞いた」
破られた頁のことが、頭に浮かぶ。
最後の数頁だけが、丁寧に破り取られていた手帳。破り方が乱暴でなかったから、俺はあれを誰かの仕業だと思っていたのだ。だが、いま、話が繋がる。祖父は書いたのだろう。事故当日の記録と、裁定への抗弁を。持って行けば騎手の見立てまで引き出されると気づいて、自分の手で破ったのである。
あの丁寧な破り目は、諦めの跡ではない。選んだ跡だ。
「あの人は、抗弁を書いたと思います。書いて、破りました。祖父の手帳の最後の数頁は、破り取られています。……前席の名誉と、自分の名誉と。天秤に掛けて、片方を捨てた」
「――そうか」
侯爵は、目を閉じる。
「妻の名を守るために、章を返したか。あの男は」
「祖父は、何も言わずに死にました。俺は孫として、それを不服に思っています」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出る。
「だから、請求します。監理局の再審条項を読みました。請求権者は、当事者または遺族です」
「読んだのか」
「規程は、俺にも読めます」
侯爵は、笑わなかった。ただ、肯く。
「監理卿の名では、再審は開けん。裁定は監理局の合議だ。わたしが動けば、握り潰したと言われた紙を、今度は捻じ曲げたと言われる。……立てるなら、おまえが立て。おまえが立った紙は、わたしが潰さん」
それだけ言うと、この人は外套の裾を返した。
敷居のところで一度だけ止まり、こちらを振り返らずに言う。
「……手だけは、あの男に似ている」
鉄の扉が、閉じた。
彼女が、両手で顔を覆う。泣き声は出ていない。俺は油布を差し出しかけて、やめた。今夜の涙は、拭かなくていい種類の涙である。
翌朝、修繕科の机に、見慣れない紙が一枚置かれている。
黄ばんだ紙の右上に、朱の受付印。三十七年夏末月、監理局受付。工具箱に腰を下ろしたドナートが、髭の下で少しだけ笑った。
「進言書の写しだ。わしが捺した印だぞ、坊主」
◇
手帳の余白より 夏末月十二日・夜半
父が、あなたの字を読みました。妬ける、の一行で崩れたのです。わたくしは十五年、父を鉄より冷たい人だと思っておりました。冷たいのではなく、凍っていただけです。凍った人を溶かしたのは、わたくしの抗議でも涙でもなく、お母様、あなたの何気ない一行でした。手帳を渡した手が震えていたのは、怖かったからではありません。惜しかったのです。この一冊を、わたくしはずっと独り占めにしてきました。分けても減らないものだと、今夜やっと知ります。




