17. 十五年目の起動整備
紙で殴り込む道が閉じても、鉄を直す道までは閉じない。
破断した右脚継手は、監理局の封蝋の中で試料室の判定を待っている。係争中の物件を積んだ機体を勝手に壊す訳にはいかないから、〈ヴェスペリーネ〉そのものが監理局の預かりとなり、解体命令の執行は止まった。凍らせたのはドナートの手筋である。あの老人は技術審判長の名で、こういう一枚を立てた。――機体の状態を確定させるには、復旧整備を経た機能の確認が要る。
「規程は十五年待てる。だがな坊主、待っとる間に鉄は錆びる。だから直せ。それが検分の続きだ」
条文を盾に使う男の顔で、あの人はそう言った。
夏中月の残りは、部品の手配と検収に消えていく。そして夏末月五日、〈ヴェスペリーネ〉は封印庫を出て、修繕科の第三格納に据えられた。移送は台車で、傾けないよう若い衆が四人がかりで押す。日の下を進む白銀の鋼騎士を、工廠じゅうの窓から誰かが見ていた気がする。
整備は、外から順に開けていく。
装甲の鋲を抜き、胸板を外す。封印の十五年ぶんの埃の下から、十七年目の機体の内側が現れた。導脈の編み目が、肋のあいだを縫って腰へ落ちていく。継手が節ごとに光り、その奥に炉室の丸い扉がある。人の体でいえば、皮を剥いで筋と腱を露わにしたところだ。不謹慎な喩えだが、職人の目には、こここそが顔である。
右脚から、左脚。腰環を割り、胴を起こす。
装甲を一枚外すたび、俺は手を止めることになった。
継手の裏に、締め跡がある。
締結の跡というのは、締め方の癖が出るものだ。締め歌の拍で締めた跡は、六角の角の潰れ方が均され、同じ側に同じ深さで並ぶ。俺の手が知っているのと、寸分違わない並びだった。導脈の編み目の結わえも、余りの端を内へ折り込んで隠す、あの結わえ方である。
部品の裏には、黒鉛の粉がわずかに残っていた。拓を取った跡だ。この人は自分の入れた部品をいちいち紙に写し、誰も見ない場所に、誰にも見せない証拠を、几帳面に残し続けていたのである。
祖父の指紋が、機体じゅうにあった。
土間で締め歌を教えてくれたあの背中は、宮廷でこうやって働いていたのか。三十年黙って働いて、紙一枚で切られて、それでも下町で機嫌よく人の膝を直していた。俺は機械の脈なら聴ける。この機体の炉の脈を、初めて聴いた日の速さまで思い出せる。それなのに、この人の沈黙だけは、一度も聴けなかったのだ。
いま、聴いている。
装甲の内側でしか喋らない人だった。だから俺は、装甲を開けに来たらしい。
新しい継手は現行の正規品である。
検収はエミールが自ら来た。封緘を切り、寸法を測り、刻印を控え、検印を捺す。作業台の上に、証明書の紙が一枚増える。
「今度は、私が見ます」
彼はそれだけ言って、帰っていった。余計な言葉のない男である。
俺は新しい継手を、祖父の締め跡の上に重ねて締める。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。締め歌の拍で、同じ角を、同じ深さまで。祖父が最後に触れた場所に、俺の跡が重なった。上書きではない。継ぎである。
導脈は総取り替えになった。炉室の魔晶石は洗って戻す。腱にあたる短い導脈を一本ずつ通し、圧の漏れを泡で見て、また通す。単調な作業だ。単調な作業ほど、機体は正直に応える。
彼女は、学院の帰りにほぼ毎日来た。
検分の記録を手伝わせてくれ、というあの申し出を、この人は一日も欠かさず守っている。工具の名を覚え、油壺の位置を覚え、記録の字は俺よりずっと読みやすい。三日目には手袋が油で真っ黒になり、五日目には作業着の袖を自分で捲るようになった。侯爵令嬢の腕に、剣だこと一緒に細かい擦り傷が増えていく。
夏末月十二日の夜、最後の装甲を戻し終える。
格納は静まり返り、灯りは作業台の一つだけである。彼女が炉室の記録を読み上げ、俺が数字を控える。読み上げが終わり、彼女が顔を上げた。
頬に、油がついている。
鼻の脇から頬骨のあたりまで、指で拭った跡が黒く残っていた。髪を掻き上げたときについたのだろう。教えようとして、俺は口の代わりに手が出ている。腰の布を抜き、彼女の頬に当てる。
止まった。
二人とも、である。
布ごしの頬の輪郭が、指に伝わる。この距離まで人に近づくのは、機体を診るときだけだ。機体は驚かない。人は、驚く。彼女の睫毛が一度だけ震え、冬の湖の色が、逃げずにこちらを見上げていた。俺の胸の奥では、聴診棒を当てるまでもない音が鳴りっぱなしになっている。
「あ、油が……」
「……はい」
「取れました」
「……ありがとう」
彼女は俺の手から布を受け取り、まだ油のない側の頬まで丁寧に拭いた。拭う必要のない場所である。俺は見なかったことにして、工具を拭く。工具は、もう十分に綺麗だった。
沈黙が、心地よくもあり、耐えがたくもある。
こういうときに手を動かす癖があってよかったと思う。動かす物がなかったら、俺はきっと、言ってはいけない順番のことを言っていた。
その沈黙を破ったのは、格納の入口である。
鉄の扉が、低く軋んだ。
振り向いた先、灯りの届かない敷居のところに、黒い外套の男が立っている。
冬の湖の色が、機体を見ていた。
◇
手帳の余白より 夏末月十二日
母の機体の中を、この目で見ました。皮を剥いだ内側は思っていたよりずっと細い管の集まりで、これで一トンの体が動くのだと知って、少し泣きそうになったのです。爺やの締め跡の上に、あの人が同じ拍で締めていきます。継ぎだ、と言っていました。上書きではなく、継ぎ。頬を拭かれたときのことは、書かないでおきます。書くと、形が決まってしまう気がするから。お母様、扉のところに父がおります。わたくしは、逃げも隠れもいたしません。




