16. 規格の人、帳簿を開く
台帳は商会の中だ――ドナートはそう言い置いて帰っていった。
だが、その前に足を運ぶべき場所が工廠にある。夏中月二十日の朝いちばん、俺は修繕科から検収科へ渡る。
検収科の部屋には油の匂いがしない。紙と、糊と、封蝋の匂いだけだ。鋼騎士を一体も置かないこの部屋で、この国の機体の是非が決まる。
エミール・ギルドナーは書見台に向かい、規格表の頁を繰っていた。俺は帽子を取り、頭を下げる。
「頼みがあります。十五年前、あの機体の右脚継手が交換されている。その記録と部品の番号が要ります。工廠の改修台帳だ。俺には、引く資格がない」
「……頭を上げてください。あなたに下げられると、こちらの背骨の据わりが悪い」
エミールは規格表を閉じた。閉じ方が、やけに丁寧である。
「――先に、こちらから話します」
彼は眼鏡を外し、布で拭き、掛け直す。理屈の早口の男が、言葉を選ぶために手を動かしていた。
「十七の年に、家の帳簿を任されました。三十八年の綴りに、消し痕があるのです。一行ぶん、丁寧に削って、上から書き直してある。回収の記録でした。何を回収したのかは、書き直された字には残っていない」
「訊かなかったんですか」
「訊けば、家がどう答えるかが分かってしまう気がしたのです。代わりに私は、規格を信じることにしました。……あれは、消し痕から目を逸らすために作った信条だったのかもしれません」
悪意なき棘の男が、初めて自分に棘を向けている。
「言っておきますが、私が見たのは商会の三男としてです。証拠にはなりません」
「分かってます。だから、あんたの権限の話をしに来た」
検収科には、納入品の来歴を検める権限がある。エミールは申請書を三枚書き、その日のうちに地下の文書庫を開けさせた。三十七年の改修台帳は麻紐で四つ目に綴じられ、背に工廠の封緘紙が貼ってある。封緘を切るのは検収科の役目で、俺は横で灯りを持つだけだ。紙の埃が、灯りの中をゆっくり回っていた。
夏末月の頁に、それはある。
〈ヴェスペリーネ〉右脚継手交換。実施、三十七年夏末月二十二日。担当機関士、ヨルゲン・カルデン。使用部品の欄に、納入元ギルドナー商会の名と、数字の列がある。ロット番号だ。
俺は懐から祖父の手帳を出した。
二枚目の拓本――交換した新品の継手の縁を、祖父が黒鉛で写し取った一枚である。銘と、鋳込みの番号。それを台帳の数字の横に、そっと並べる。
合う。
拓本の番号と台帳の番号が、一字も違わずに合った。祖父は自分の入れた部品の顔を紙に写し、誰にも見せず持っていたのだ。灯りの下で、十五年前の黒鉛と墨が、同じ数字を言っている。
「番号があれば、納入元へ照会できます。検収科の名で、正規に。……取りに行くのは私が行きます。三男の足なら、門番に止められない」
照会を待つ間、隣の検収台では五型の作動検査が続いていた。
封緘された銀色の箱――新型の自律弁が、係官のわざとの乱れを拾うたび、かちり、と鳴って圧を絞る。乱れるたびに絞り、絞るたびに出力が減る音である。人の手より速く、疲れもしない。ただし、絞ることしかできない。
「規程では、雨天の跳躍課目に五型は出せません。絞りが重なって、出力が枯れますから」
「後席は、乱れる前に作る」
「ええ。それが、規格に書けない部分です。書けないものは残らず、残らないものは消える。……いまは、少し違うことを考えています」
照会の返事は、その日の午後に届いた。三男の足は速い。
商会の納入台帳、三十七年夏末月の頁の正式な写しである。当該ロットの行に、納入日と数量と、検品の欄。いや――検品済の印が、ない。代わりに「省」の一字を丸で囲んだ小さな印が捺してある。
「検品省略印です。納期が迫ったとき、検めるのを後回しにして先に納める。後日改めて検める、という建前の印です。……後日の記録は、どこにもありません」
エミールの声が、乾いていた。
鎖が、繋がる。
祖父が濁りを聴き、進言する。進言は受理され、新品が入る。その新品は、検めを省いたロットの一本だったのだ。祖父の耳も、手も、紙も、全部正しい。正しい手続きの列の中に、一箇所だけ、誰も検めていない穴が空いている。
ただし、これでもまだ証明ではない。台帳が言うのは「検めなかった」ことだけで、「中身が規格外だった」とは一言も言っていないのだ。折れた一本きりでは、たまたま鬆が入ったのだと言われて終わる。同じ鍋から出た、折れていない兄弟が要る。
「回収の記録が消されている、ということは」
エミールが天井を見上げた。
「捨てていない、という意味かもしれません」
工廠を出ると、門のところに彼女が立っている。
学院の帰りだという。話せる範囲で今日のことを話すと、彼女はしばらく黙って歩き、それから、こう言う。
「あなたは、人の直し方も脈からなのですね」
「……というと」
「ギルドナー様を責める言葉を、一つもお使いにならなかったでしょう。緩んでいるところを、締める順に締めた。締め歌と同じです」
夕方の風が、彼女の髪を乱している。褒められ方として、これ以上のものを俺は知らない。返す言葉が見つからず、結局「そういうことにしておきます」とだけ言った。彼女が、小さく笑う。
その笑いが消えたのは、中庭の人だかりを見つけたときである。
掲示板に、真新しい布告。読み上げの係官の声が、石壁に反響している。
秋初月十五日、建国祭観閲式。本年は事故より十五年の追悼を併せ執り行う。式次第に、跳躍課目を復す――。
十五年ぶりの、跳躍。
人だかりの向こうに黒い外套が見えた。監理卿である。公示の立会いに出ていたのだろう。娘の姿を認めて、その足が止まる。
彼女は、父の前へ真っ直ぐに歩いた。
「お父様。観閲式には、わたくしが出走いたします」
中庭が、静まる。
「母の機体で走ります」
◇
手帳の余白より 夏中月二十日
言ってしまいました。人が大勢いる中庭で、父の目を見て。声が震えなかったのは、後ろにあの人が立っていてくれたからだと思います。跳躍が復ると聞いたとき、体の芯が冷たくなりました。母が落ちた課目です。それでも、口のほうが先に動いたのです。わたくしは走りたいのではありません。母が最後に見た景色の続きを、まだ生きている者の側から見たいのです。父は何もおっしゃらず、外套の裾を返して行かれました。あの背中は、怒っている背中ではございません。




