15. 受理されない報告書
受理せず、の四文字を、白髭は長いこと睨んでいる。
「開けてもおらん。読まずに、蹴った」
「そういう印なのですか」
「そういう印だ。……耳よ、これは監理卿一人の腕じゃ動かん紙だぞ。上が、波風を嫌っとる。秋の観閲式は事故から十五年の節目でな、總監のホルガーサマは、王様に「安全になった十五年」をご覧に入れる腹だ。式の前に古い事故の紙が動いてみろ、絵が台無しになる。……分かるか、耳。誰も嘘は言っとらん。ただ、みんな絵の都合で目を瞑るのだ」
監理卿の権限と、總監の忖度。二枚の壁の向こうで、朱の印だけがこちらを向いている。紙で筋を通す道は、これで一度、閉じたことになる。
夕刻、彼女が来た。
昨夜、屋敷の食卓で父に正面から抗議したのだという。詳細を語る声は淡々としていたが、握った拳の白さが、食卓の温度を語っている。
「父は、一言だけでした。あれは家の傷だ、開くな、と。……傷なら、なおのこと開いて検めるべきです。膿んだ傷を、閉じたまま治した機体を、わたくしは見たことがありません」
「同感です」
「明日から、わたくしにも検分の記録を手伝わせてください。娘の目で見ておくべきものが、あの機体にはある気がします」
断る理由は、どこにもなかった。並んで工具を拭く肩が、今日は少し近い。悔しさというのは、二人で分けると、重さの割に軽くなる。そういう勘定の合わない性質を、俺は最近の毎日で学びつつある。
夜は修繕科に残って、十三番の整備である。
急ぎの用があったわけではない。答えの出ない日は、手を動かすに限るのだ。関節に油を差し、締め歌で増し締めをして、炉の眠り脈を聴く。規則正しい、健やかな脈である。鋼騎士というのは、直る機体である限り、聴く者を裏切らない。直る機体の音を聴いていると、直らないものを直す勇気が、少しずつ肚に戻ってくる。
「精が出るな、若いの」
振り向くと、格納の入口に、白髪を短く刈った老人が立っている。
ドナート・クロネ。試験場以来である。主任試験官が夜の修繕科に何の用かと思う間に、老人は勝手に工具箱へ腰を下ろした。
「受理せず、と来たそうだな。耳の早いことで、と言いたいところだが――わしは元々、耳より先に紙で知る側の男でな。三十八年まで、監理局の受付官をやっとった」
三十八年。裁定の年である。
「坊主は、十五年前の裁定の中身を知っとるか」
「いえ。祖父は何も」
「だろうな」
老人は、天井の梁を見上げた。
「裁定はこうだ。――後席の調圧過剰が、破断を誘発した。つまりな、機体を壊したのはヨルゲン・カルデンの手だと、紙にそう書いて、切ったのだ」
調圧過剰。あの祖父が。進言し、交換させ、試走まで検めた男が、自分の手で壊したと。
肚の底が、冷たくなった。怒りより先に、来たのは寒さである。手帳の三行が、頭の中で裏返る。打てる手を全部打った男に、紙は、おまえの手が壊したと書いたのだ。祖父はそれを十五年、否とも言わず、店の土間で笑って俺に締め歌を教えていた。あの背中の静けさの中身を、俺は今夜、初めて知る。
「知っての通り、進言書は受理されておる。受付印はわしが捺した。……その写しが、いまもわしの手元にある」
「なら――」
「慌てるな」
老人は、掌をこちらへ向けた。
「写し一枚で何が言える。進言して、交換までさせて、それでも折れた。裁定の側から読めばな、坊主。それは『見立て違いの証拠』に化けるのだ。写しは両刃でな。出しどころを誤れば、あの男を二度斬る」
「……だから、十五年」
「そうだ。坊主があの日、断定を書かずに立会いを呼んだのは、いい手順だ。十五年前のわしらには、その立会いを呼ぶ場所がなかった。機体は封の中、部品は封の中、台帳は商会の中。紙一枚で殴り込むには、壁が三枚多すぎたのだ」
壁は、いまも三枚ある。だが十五年前と違うことも、三つある。機体はもう封の外で、部品は封蝋の中で守られ、そして――規格の友が、いる。
だから十五年、誰も抜かなかったのか。祖父も、この老人も。
ドナートは腰を上げ、去り際に、こちらを見ずに言った。
「断面の縞、だそうだな。縞の出どころは紙が知っとる。納めた側の紙だ。……坊主、規格の友はおらんのか。台帳は、商会の中だ」
◇
手帳の余白より 夏中月十五日
昨夜の食卓のことを、ここに書いておきます。銀器の音だけがする長い食卓で、わたくしは初めて、父の目を見て抗議しました。父は皿から顔を上げず、あれは家の傷だ、開くな、と一言。傷、という言葉を選んだことを、わたくしは覚えておこうと思います。物なら、壊れた、と言うはずです。父の中であの機体は、まだ物になっていない。それは多分、希望なのです。今日、あの人の隣で決めました。娘の目と、職人の耳と、規格の友。三つ揃えて、正面から参ります。




