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30. 生涯分の指名を

 秋初月二十二日。よく晴れた朝である。


 店の雨戸を開けると、下町の朝の音が一度に流れ込んできた。荷車の軋み、パン屋の窯の匂い、路地を走る子供、井戸端の女房連の笑い声。この音の中で、俺は生まれて、育って、二十四になった。宮廷の朝の音も悪くないが、肚に馴染むのはこちらである。


 土間に、火消しの六号機が入っている。


 昨日から預かっている、三型の払い下げである。下町でいちばん働いている鋼騎士(シュタールリッター)だ。膝の音を診てくれとヤンが言うので、朝いちばんで油を差し、軸受の遊びを詰め、締め歌の拍で腰環を締め直した。


 歩かせてみる。


 ――鳴らない。


 あの、かた、かた、という耳障りな音が、今日は一つも出ない。俺は思わず声を出して笑った。何十回と直してきた機体だが、音が消える瞬間はいつでも嬉しい。


「坊、笑っとるぞ」


「鳴らないんですよ、親方。今日は一つも」


「そりゃ結構だ。……宮廷技師サマの手にかかると、うちの六号も貴族になるな」


 貴族になった六号機が、土間で得意げに膝を曲げ伸ばししている。


       ◇


 店の看板は、先週から二枚になった。


 一枚は、曽祖父の代からの「カルデン機巧修理店」。もう一枚は、まだ木の香りのする新しい板で、「王室指定修理店」と彫ってある。


 この二枚目を掛けるかどうかで、俺は三日迷った。


 宮廷の看板を下町の店先に出すのは、少し格好がつきすぎる。だが、ヤンにこう言われて腹が決まった。――坊、これは自慢の板じゃねえ。うちの六号を直しとる男が宮廷の技師だと、下町の連中が胸を張るための板だ。


 なるほど、と思う。


 だから掛けた。看板というのは、掲げる側より、見上げる側のためにあるものらしい。


 店は、続ける。


 宮廷の修繕科には週の四日出て、残りは店に立つ。専属機関士の務めは、〈ヴェスペリーネ〉の整備と、前席の求めがあれば後席に乗ること。俸給と手当と、店の売り上げ。三つ合わせれば、若い衆を一人雇う目処も立つ。筋と勘定の両方が立つ話は、下町では上等の部類なのだ。


       ◇


 建白が受理された、という報せが届いたのは、昼前だった。


 エミールと二人で書いた紙である。


 中身は二つ。納入品の抜き取り検品を工廠側の権限として制度化すること。そして、脈聴きを教程として王立騎士学院と工廠の見習い課程に入れること。


 前者はエミールが起草し、後者は俺が口で言ったものを彼が文章にした。俺の書く文は納品書の文体にしかならないので、こういうときは餅屋に任せるに限る。


 付記の一行だけは、二人で何度も書き直した。


 ――規格は嘘を防ぎ、手は機体を活かす。


 どちらが上でもない、と書きたかった。夏初月の夜に、この男と論戦をしている。規格の人と、脈の人。あのときは互いに一歩も引かなかったが、いま思えば、二人とも同じことを言っていたのだ。機体に嘘をつかせない、という一点である。


 教程の教材機として、〈ヴェスペリーネ〉が騎士学院へ移されることも決まった。


 封印庫でも、儀典の飾りでもない。学生が乗って、壊して、直して、また乗る機体になる。複座の教育が、十五年ぶりに再開される。母の機体としては、たぶんこれがいちばん忙しい余生である。


「整備の手間が、増えますな」


 報せを持ってきたエミールが、そう言って眼鏡を押し上げる。


 新しい眼鏡である。前のは、観閲式の泥の中でとうとう見つからなかった。


「学生は必ず壊します。それも、規格表にない壊し方をします」


「そのために教程を作ったんでしょう」


「ええ。……あなたに、教官の口が来ますよ。覚悟しておくといい」


「勘弁してください。俺は人にものを教えるのが下手だ」


「下手な人ほど、教わる側は忘れません」


 この男は、褒めるときも棘の出し方を間違えない。


       ◇


 午後、店の前に馬車が停まった。


 鉄格子と、薔薇の紋。あの日、試験場の外で見て、下町の修理屋には縁のない世界だと思った馬車である。いまはうちの店の前が、この馬車の定位置になりつつある。


 降りてきた彼女は、学院の制服だった。


 髪を上げて、飾り気のない襟をきちんと立てて、いつもの背筋で店の敷居を跨いでくる。手には、母の手帳。それと――もう一冊、見慣れない綴りがある。


「ごきげんよう」


「いらっしゃい。……何です、それは」


「指名式の、書式です」


 彼女が、綴りを作業台に置く。


 俺は、それを見下ろした。


 王立騎士学院操機科、連成実技指名書。あの日、試験場の壇上で使われたのと同じ書式である。騎手の氏名を書く欄と、指名する技師の氏名を書く欄と、期間を書く欄がある。


 夏初月三日。あの日この紙の上で、俺の名前が呼ばれたのだ。


「教材機の運用にあたり、学院は複座の組を登録することになりました。前席と後席の組です。……つきましては」


 彼女が、筆を取る。


 取ってから、少しだけ手が止まった。止まったのは一拍だけで、それから、いつもの迷いのない字で前席の欄を埋めていく。フレデリカ・アイゼンガルテン。


 筆が、後席の欄の前で止まる。


「――あなた、後席に乗ってくださる?」


 あの日と、同じ言葉だった。


 試験場の壇を降りて、並み居る学院出のエリートを素通りして、廃棄寸前の十三番の前に立った人が言った言葉。あのとき俺は、何が起きているのか半分も分かっていない。周りは失笑していて、俺は油の染みた手を持て余していたのだ。


 いまは、分かる。


 この人が何を言おうとしているのかも、俺がどう答えるべきかも、答えたあとに何が始まるのかも、全部分かっている。


「期間の欄が、空いてますね」


「はい」


「なんと書けばいいですか」


 彼女が、顔を上げる。


 冬の湖の色が、まっすぐこちらを見ている。指名式の壇の上で、一ミリも引かなかったあの目である。あのときと違うのは、いま、その目がわずかに潤んでいることだった。


「次の指名を、差し上げます」


 声が、震えない。


 この人は肝心なところで、決して震えない人だ。


「一生涯……どうでしょう?」


 冬の湖の瞳が真っすぐに――きらりと光った。


       ◇


 俺は、しばらく黙っていた。


 黙って、作業台の上の紙を見ている。


 下町の修理屋である。曽祖父が開いて、父が継いで、俺が三代目の主だ。相手は侯爵家の令嬢で、騎士学院の首席で、いまは工廠の教材機を任された前席である。身分の高さは、あの日から一寸も変わっていない。


 変わったのは、この人がひと夏と十五年をかけて、その差を「関係ない」と言い切れる場所まで自分で歩いてきたことだ。


「――拒否権は、ありますか」


 俺が訊くと、彼女が息を呑んだ。


 それから、あの日と同じ答えを、少し掠れた声で返してきた。


「あります。……行使は、なさいますか?」


「しません」


 俺のほうも、少しは歩いている。


 記念受験と嘘をついていた男が、請求人の欄に自分の名を書き、王国でいちばん近い場所にいると口に出した。ここまで来て、まだ身分の話をするのは、この人に失礼である。


 筆を取った。


 油の染みた指で、火傷痕の残る前腕で、後席の欄に自分の名を書く。ニクラス・カルデン。この夏、三度目に紙へ置く姓だ。一度目は合格の掲示。二度目は再審の請求書。三度目が――これである。


 期間の欄に、力を込め書き込む。


 生涯――――。


 二文字である。役所の書式に書き込むには、あまりに規格外の言葉だった。検分官が見たら、たぶん「所定の様式にあらず」と突き返す。


 突き返されたら、そのときはまた出せばいい。三度でも、十度でも。俺は紙を出すのには慣れている。


 彼女が、右手を差し出した。


 握手ではない。掌を上に向けて、こちらへ差し出す形。前席が後席へ、接続を確かめるときの手つきである。


 俺は、その手を取った。


 操縦手袋の下の剣だこ。この夏、そこに増えた細かい擦り傷。油の匂いが、少しだけ移っている。侯爵令嬢の手が油くさくなったのは、たぶん俺のせいだ。それを詫びる気は、もうない。


 どちらからともなく、俺たちは唱和した。


「「両席、繋がりました」」


 声が、重なる。


 そして彼女が、続けた。あの儀式語には、本来ない一行を。


「――生涯、離れません。ふふっ」


 潤んだ瞳で見上げる彼女に思わず目をそらした。俺の顔はきっと真っ赤になってしまっているに違いない。


 幸せの正しい受け止め方など、まださっぱり分からないのだ。


       ◇


 窓の外で、六号機がまた歩かされている。


 ヤンが得意になって、若い衆に見せびらかしているのだ。かた、かた、という音は、やはり一つも鳴らない。膝の治った機体の歩く音は、健やかで、単調で、聴いていて飽きない。


 直る機体は、聴く者を裏切らない。


 直らないものを直す勇気は、直る機体の音から肚に戻ってくる。祖父が三十年かけて教えようとしたのは、たぶんそういうことだったのだと思う。あの人は一度もそう言わなかった。言わずに、締め歌だけを教えて死んだ。


 壁の釘に、技師章が掛かっている。


 その隣に裁定書の写し。さらに隣に、不機嫌そうな顔の遺影。


 ――爺さん。


 胸の内で、俺は呼んだ。


 後席、続けるよ。


       ◇


 後席の人へ 秋初月二十二日


 この頁から、宛先を変えます。お母様、お許しください。この手帳はもともと、あなたが右脚の機嫌を書きつけた帳面でした。余白にわたくしが書き足すようになって、三月あまりになります。今日でその余白も、残り少なくなりました。


 だから、ここからは、あなたに書きます。


 あの日、壇を降りたとき、わたくしは自分が何をしているのか半分も分かっておりませんでした。実務者がいない、今日の整備を見た、カルデンの名を知っている――理由は三つとも、いまでも本当のことです。ですが、それだけではありませんでした。査定の点にならない仕事を黙って続けているあなたの手を見て、この人に背中を預けたい、と思ったのです。


 それから百日あまり、あなたはわたくしの膝を、一度も折らせておりません。


 拍を遅らせろとは、一度もおっしゃいませんでした。


 生涯分、と申し上げたのは、ずいぶん厚かましいお願いだったと思います。けれど後席というのは、前席が命を預ける相手のことです。預けるものが命であるうちは、期間など書きようがないのです。


 次の余白は、あなたと二人で埋めさせてください。


(了)


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