12. 祖父の手帳
底板の下には、油紙の包みがあった。夜半の帳場、燭台一本の灯りである。油紙は幾重にも巻かれ、紐の結びは祖父の癖の男結びだった。解く指が、自然と丁寧になる。
開くと、手帳である。掌より少し大きい、革の角の擦り切れた一冊。表紙の裏に、小さく一語だけ、工廠、とある。持ち出しを憚った男が、それでも捨てられなかった一冊、ということだろう。頁のほとんどは鋼騎士の脈の覚え書きで、几帳面な小さい字が、機体の名と日付と音の調子を淡々と刻んでいる。祖父の字だ。読んでいるだけで、油の匂いがする。
三十七年、夏の頁で、手が止まった。
『右脚継手、脈が濁る。交換を進言す』
『進言、受理さる。受付印を確かむ』
『継手、換わる。馴致試走、異音なし』
三行とも、いつもの覚え書きと同じ淡々とした字である。ただ、三行目だけ、筆圧がわずかに深い。異音なし、と書いた指先の安堵まで、紙に写り取られているかのようである。
機体の名は書いていない。だが右脚継手、進言、受付印。宮廷の、それも一機のための記録である。祖父は異常を聴き取り、交換を求め、受理させ、新品に換えさせ、慣らしの試走まで検めている。
打てる手は、全て打ってある。
下町の噂は、宮廷で事故を起こした技師、というところで止まっている。九つの俺が知っているのは、ある日祖父が店に来て、それきり宮廷の話をしなかったことだけだ。訊いてはいけない気がして、一度も訊かないまま、祖父は死んだ。……訊けばよかったのだ。いまさら悔いても、答えてくれるのはこの手帳しかない。
職人として、これ以上の手順はない。なのに祖父はその年の秋に章を返し、下町へ降りた。手帳の手順と、章を返すという結末が、どうしても一本の線で繋がらない。分からないことが、また一つ増えた。いや――初めて、分からないことの形が見えたのだ。
頁の間に、薄紙が二枚挟まっている。
炭で擦り取った、部品の肌の拓本である。一枚目は、外した旧い継手のもの。肌のざらつきが写り、余白に脈の譜が走り書きされ、濁りの出た箇所に小さな印がある。聴いた音を紙に残す、祖父のやり方だ。拓本の取り方は、俺も祖父に仕込まれた。部品の肌に薄紙を当て、炭を寝かせて滑らせる。肌のざらつき、傷、刻印。手で触れるより、紙のほうが正直に覚えていることがあるのだ。
二枚目は、入れ替えた新品の継手のものだった。肌は綺麗で、譜の書き込みはない。代わりに縁の刻印が、くっきりと写し取られている。銘と、納めの番号。外した物と、入れた物。両方を紙に残すのも、祖父の流儀である。
二枚を灯りに透かして、十五年前の仕事を目で読んだ。濁りの譜は、丁寧で、慎重で、それでいて確信のある走り書きである。俺の脈聴きの先生は、店の土間に立つより前から、こういう耳をしていたのだ。
契約整備の日、俺はそれを彼女に見せる。
最初に見せる相手を、迷わなかった。作業台の上に、彼女の母の手帳と、俺の祖父の手帳が並ぶ。革の色も、擦り切れ方も、不思議なほど似た二冊である。
彼女は『交換を進言す』の頁を、長いこと見つめている。
「……打つ手を、打っていたのですね」
「ええ。全部」
「では、なぜ」
なぜ。その先は、二人とも口にしない。彼女の「爺や」と、俺の「爺さん」が同じ人だと、たぶんもう互いに分かっている。分かっていて、まだ名前にしない。その一線が、いまの俺たちの精一杯である。
二冊を並べたまま、俺たちはしばらく黙っていた。侯爵家の令嬢と下町の修理屋の間に、共通の思い出は一つもない。ただ、同じ形見の持ち方をする者同士ではある。窓の外で、夜勤の火入れの脈が一つ、遠く響いた。手帳の字と、生きている機体の音。十五年は、まだ切れていない。
手帳を繰り直して、おかしなことに気づく。
最後の数頁が、ない。
綴じ糸の際から、丁寧に破り取られている。残った糸だけが、頁のあった形に波打っていた。誰が、いつ、何を破ったのか。
破り方にも、人柄は出る。乱暴にむしった跡ではない。定規でも当てたように、際から真っ直ぐ取られている。怒りで破る破り方ではないのだ。むしろ――何かを、守るための破り方に見えた。
探すべきものが、また一つ増えたことになる。破られた頁と、破った手。祖父の十五年は、思っていたより深い澱の中にある。浚うと決めたのは俺である。深さに、文句は言うまい。
◇
手帳の余白より 夏中月四日
作業台の上に、手帳が二冊並びました。母のものと、あの人の祖父のもの。革の擦り切れ方まで似ているのは、きっと、同じように毎日開かれたからです。『交換を進言す』の一行を見たとき、わたくしは泣きそうになりました。爺やは、母を守ろうとしていたのです。ずっとそう信じてきたことに、初めて紙の証拠が並んだのです。けれどあの人の横顔は、晴れませんでした。打つ手を全部打った人が、なぜ黙って消えたのか。破られた頁の糸の波が、わたくしの目にも焼き付いています。




