表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/30

11. 侯爵閣下と、下町の飯

 視察の朝の修繕科は、床が顔を映すほど磨かれていた。三日がかりの掃除で、油の匂いまで薄い。油の匂いのしない修繕科など、味の抜けた煮込みのようなものである。


 監理卿は、王宮工廠の全て――鋼騎士(シュタールリッター)の新造も、修繕も、検収も、封印庫の錠までも束ねる宮廷職である。その人が科の敷居を跨いだ瞬間、空気の重さが変わった。黒の外套、白髪まじりの金髪、彫りの深い顔。そして目の色で、分かってしまった。冬の湖。あの色は、父譲りだったのだ。


 白髭が新任を紹介する順になり、俺は一歩前へ出る。


「新任の技師、ニクラス・カルデンにございます」


 侯爵の目が、凍った。


 言葉はない。ただ、視線が俺の顔の上で止まり、それから名札の姓の上で止まる。長い、長い三秒である。


「……カルデン」


 それだけを、低く置いて、監理卿は次の列へ歩を進めた。剣呑(けんのん)というのとも違う。凍った湖の底で、何かが軋んだ音がした。そんな沈黙である。


 監理卿は科の機体を順に検めていったが、その間、鉄には一度も手を触れなかった。目だけで検め、手袋の指は外套の内に仕舞われたままである。機体を束ねる人が、機体に触れない。奇妙なことだと、そのときはただ思った。


 視察が去ったあとも、科の空気はしばらく戻らない。白髭が何か言いかけて、口を閉じる。誰も、何も説明しない。ここでも十五年は、口にしないのが不文律らしい。


 帰り際、白髭にだけ訊いてみた。親方、うちの姓に何かありますか。白髭は長いこと黙り、済まん、と一言だけ寄越した。謝られる筋の話らしい、ということだけが分かる。


 その晩、俺は決めた。


 祖父は宮廷で何があったのか。なぜ章を返し、なぜ死ぬまで黙っていたのか。誰も語らないなら、聴きに行くまでである。機嫌を訊くな、脈を聴け。機械にできることが、人の過去にできない道理はない。


 翌日は非番で、ヤンの六号機の出張修理だった。


 組の車庫に着くと、見慣れた外套のお忍びが先に立っている。契約外ですが、と言うと、下町の仕事を見たいのです、と返された。理屈になっていない理屈だが、追い返す理屈も、俺は持っていない。


 六号機は三型の払い下げで、火消し向けに梯子座と手押しポンプを背負った、うちの店の一番の古株客である。膝と、ポンプの圧を検める。火消しのポンプには下町の目安唄があって、『圧三分で水は糸、五分で帯、七分で虹になる』と、梯子座に登って唄いながら、彼女に手押しの柄を任せた。


「三分――糸です」


「五分――帯、出ました」


「七分。……虹!」


 放水の先に、朝の光が割れて小さな虹が立つ。梯子座から見下ろすと、侯爵令嬢が手押しポンプの柄を握ったまま、子供のような顔で虹を見上げていた。若い衆が囃し、ヤンが笑い、六号機の膝はもう鳴らない。


 昼飯は、組の裏の屋台の煮込みである。


 彼女は値切りというものに初めて挑戦し、見事に失敗して、なぜか団子をおまけに貰っていた。下町というのは、そういう場所である。強い者からは取り、可愛い客には付ける。


「……美味しい。器の縁が欠けていると、味が濃くなるのでしょうか」


「それは店主に言わないでください。喜んで全部の器を欠きます」


 彼女が、噴き出した。指名式でも、整備場でも、店でも見たことのない、湯気の向こうの無防備な笑い顔である。


 俺の心の奥底で何かが鳴った――。


「ここでは、息が吸えます」


 彼女はぽつりと言って、器に目を落とした。屋敷では、と続きかけた言葉は、煮込みと一緒に呑み込まれたらしい。俺は聞かなかったことにして、団子を半分に割った。


 ――落ちたな。


 誰がと言えば、俺が、である。まぁこんな素敵なお嬢様に落ちない男などいないのだ。


 だが――相手は侯爵家の令嬢で、こちらは下町の修理屋だ。落ちたところで、どうにもならない高さである。それでも胸の奥の音は、聴診棒を当てるまでもなく、もう隠しようがなかった。


 割った団子の半分を、彼女は両手で受け取って大事そうに食べる。侯爵家の食卓は、たぶん団子を両手では食べない。


 夜――。


 店の帳場で、十五年前の綴りを繰る。


 祖父が下町へ降りた年の日誌である。修理の記録ばかりで、宮廷の話は一行もない。綴りを戻し、祖父の工具箱を棚から降ろしたとき――底板が、わずかに浮いているのに気づいた。


       ◇


 手帳の余白より 夏中月三日


 手押しポンプというものを、生まれて初めて押しました。七分で虹が立つと唄で教わって、本当に虹が立ったのです。お母様、下町というところは、機体も人も、道具も唄も、みんな働き者なのですね。煮込みの屋台で、わたくしは値切りに敗北し、団子を得ました。勘定が合いません。合わない勘定の温かさというものを、わたくしは今日まで知らずに生きてきたのです。あの人は昨日、父に名を凍らされたはずなのに、今日のわたくしには、そのことを一言も言いませんでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ