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第五章 雨宿りの口づけ 1




 それが起きたのは──ほんの少しの偶然と、一欠片の願望と、少しだけ冷たい村雨のせいと、動き出した歯車のせいだった。




 山を越す途中に訪れたのは、中規模の山里だった。「少しだけ一人になりたいの……」とスーさんとカカさんに無理を言って、私は一人、商店が立ち並ぶ通りを歩いていた。

 大奥制度の七姫である私が、一人、街中を歩き回るなんて許されるわけがないから、きっとこの喧騒のどこかに紛れて銀之助が私を監視しているに違いない。それでも、私から何度となく吐かれるため息を誰かに聞かれるわけにはいかなかった。そこに含まれる甘い感情を、誰かに悟られるわけにはいかないのだ。

 まとまらない考えと、結論づけることの許されない答えの自問自答が、私の中を忙しなく掻き乱す。自分の声に振り回されてしまいそうになるから、この街の喧騒が心地よかった。 


「こんなに無責任に歩き回るなんて……ほんと私って姫として、責任感のかけらもないわね。ううん、それだけじゃない。七姫としての責任……か。そうだよね、私の身体は将軍様のものなんだから……」

 

 会ったことすらない相手、将軍、徳川瑳和希様。

 七姫である以上、私が彼に娶られる可能性は大いにある。いいえ、私だけとは限らない。彼が七姫の中から、誰を、どれだけの姫を、ネオ大江戸城へ迎え入れるかは、彼の御心のままなのだから。

 愛する人を選ぶことのできない歯痒さ。

 将軍様の嫁に娶られても、他にも彼は妾を作るかもしれないという、虚しさ。

 こんな痛み、知ることなんてないって思っていたのに。


「そんな……の、ないよ……。だって、私の気持ちは……どうなっちゃうの……?」


 誰にも聞かれない独り言は、弱音と蔑みを同時に含んでいる。


 私は姫になるために生まれてきた。姫になるために育てられ、姫として生きることを受け入れてきた。領地を分け与えられ、少しでも民のためになるようにと、いつしかそれが私の喜びになっていたことも紛れもない事実。

 スーさんがいて、カカさんがいる。二人はまるで私の母のようで姉のようで。

 銀之助がいて、彼は私の兄のようで。

 領地に戻れば、私に心地よく『おかえりなさいませ』と声をかけてくれる者たちがいる。私が将軍の嫁として召し上げられるのであれば、私の領地はもっと潤うのだろう。大切な彼らのために、彼らが笑顔で暮らしていけるように──、それでもいいと思っていた。


 はずだった。

 彼に、出会うまでは。


「ねぇ、瑳希?……なんで、私はあなたに出会っちゃったんだろう……」


 何度も──勘違いだよ──と私の心に訴え続けた。だけどもう、自分の胸には嘘がつけそうにもない。


 七姫がその身につけて良いとされるものは、姫自身が用意させた反物か、将軍から贈られた品だけ。そう、決まっているのに……。私は瑳希からもらった彼色の簪をどうしても、どうしても、どうしても……外せなかった。


 未練たらしく彼の瞳の色を私の髪の中に埋めさせる。それだけで彼を感じては、我慢しても勝手に頬が綻んでしまう。


 いつの間に、こんなに彼のことを想うようになってしまったのだろう。


 強情で、ちょっぴり意地悪で、私の話を聞かないくせに、私が強気に言い返すと嬉しそうに笑う、変な人。

 最初は、憎たらしい人って思った。偉そうだし、私のことを振り回すんだもの。

 だけど、いつしか、それに期待している私がいた。

 私は、彼と一緒にいると七姫の皇凛ではなくて、ただの凛になってしまう。

 

 皇凛は七姫、慧花けいかの姫よ。そんな私は決して泣かない。民を守るため強く賢くあれ、ずっとそうして生きてきた。

 それなのに、私、夜になると枕を濡らすようになってしまった。彼なしでは生きていけなくなりそうで、私はそれが怖かった。

 今度はいつ会えるの? 本当にまた会えるの?

 一緒に旅をしていない彼と会えるのは、太陽と月の出会う確率みたいで、遠い彼に思いを馳せるたびに、甘く胸がときめくの。

 初めて感じる心の高鳴りは、嬉しいのに切なくて。彼を思い出すと、涙が出るの。


「こんなの……絶対に、好きってことじゃない……」


 少しだけ悔しくなった。私がこんなに悩んでいることを、きっと瑳希は知らないだろうなって思ったら、思わず口先が尖ってしまう。


 すると、


「なぁーにが、そんなに好きなんだよ? もしかして、オレのこと言ってるとか?」


「う! うわぁ! さ──さささ、瑳希ぃ!? どうしてこんなところにいるの!」


 突然現れた好きな人。聞かれてしまったうっかり発言。

 私は思わず両手をバタバタと焦らせながら、瑳希へ視線を向けた。前髪、おかしくなってないかな──と身支度を直すと、にんまりと満足げな顔をした彼と目が合った。


「そんなにオレに会いたかったのかよ?」


「んー! そんなわけないでしょ! 私は、昨日食べたお団子の話をしていたの!」


 下手くそすぎる嘘は瑳希に見破られてしまうだろうか。私は照れ隠しにプイッと視線を空へと移す。ちらりと盗ませるように彼へと視線を戻すと、


「あぁ、そうですか。オレのことじゃないですか」


 と、瑳希が不貞腐れていた。少しだけ膨れた頬と面白くなさそうに潜めた眉毛。

 何よ、その顔。それじゃまるで私に『好きです』って言ってほしいみたいじゃない。そんな妄想をすれば、自然とはにかんでしまいそうになるから、私は唇を噛み締めた。


「それよりも、こんなところで何してるの?」


「あぁ? オレか、まぁ……ちょっと野暮用で。あと、お前に会えるかなって」


「え……?」


 いつもよりも素直にそんな言葉を言われてしまえば、頬の熱が込み上げるのなんて一瞬だった。


「バァカ。嘘だよ。赤くなってやんのぉ? たんじゅ〜ん!」


「んもう! か! 揶揄わないでよ!」


 馬鹿にされているのに、あしらわれているのに、どうしてだろう、あなた相手だと全然嫌じゃない。

 気がついてしまった初恋の味は、彼の隣にいると暴走してしまいそうになる。

 そんなこと、許されるわけないのに。

 恋の味は私には甘すぎて、溺れそうな気持ちが溢れるたびに、罪悪感に押し潰されそうになった。


 だって、私は七姫で。あなたは、平民。

 どれだけ私があなたを想おうとも、もしも仮にあなたが私の想いに応えてくれるとしても、私たちの運命は、決して交わることがない。


「あ。それ、オレが買ってやった簪……」


「う……うん。ちゃんと、つけてるよ? 嬉しかったもん」


「そ──っか」


「うん」


 こんな時だけ揶揄うのを止めるなんて、やっぱり瑳希はズルすぎる。いつもみたいにオレ様な態度であしらってくれたら、私も冗談を返して誤魔化せるのに。


 その時。ぽたりと一粒の雫が頬を流れていった。


 しまった──泣いてしまうつもりなんてなかったのに。急いで私を着物の袖で涙を拭くと、ぽたりぽたり、と雫が空から落ちて始めた。村雨が私の涙を隠してくれて、本当によかった。


「やばい! 降ってきたな! 凛、走るぞ!」


 瑳希が私の名前を呼んだ。瑳希の大きな手のひらが私を右手を攫っていく。グッと力強く引っ張られて、私は彼に身を任せるように、彼と一緒に大通りを走っていった。



 ***



 軒下で雨宿りをしようとした時のことだった。通りのどこかから男性の声がした時、「ヤッベ! 見つかったか?」と瑳希の眉間に皺が寄った。


「瑳希……もしかして、追われてるの?」


「ま、そんなとこ」


 瑳希がニカッと笑う。彼がこの顔をするときは、碌でもないことを考えている時で、やっぱり彼は強引な男だった。


「ちょっと付き合え!」


 雨宿りしていた軒下の反対側に建っていた小さな納屋に、瑳希が私を連れ込んだ。


「シー! 声出すなよ、気づかれる」と、瑳希の右手が私の口元に当てられる。


 狭い納屋の中は、私と瑳希がやっと入れるかというほどで、足を動かす隙間もない。ピッタリと密着して、彼に口元を覆われれば、私の心臓は早くなる一方だ。


「まったく! 我が君はどこに行かれたんだ! 早く! 探せ、探せぇ!」


 納屋の外で男の声が上がると、それに導かれるように数人の足音が続いていった。


 追われてるって言ったから、もしかしたら瑳希ってば悪党なのかなと思ったけど。まぁ、瑳希が悪党っていわれてもちょっと納得しちゃうんだけど、だけど『我が君』なんて呼ばれるってことは、瑳希ってばやっぱり良いところのご子息なのかもしれない。

 瑳希には振り回されてばっかりだし、とっても強引だけど、だけど彼の所作からは品位のようなものを感じる時がある。

 私に贈ってくれた簪だって、値の張るものだったはず。それを躊躇うことなく購入したできたことも、彼がお坊っちゃまなんだって思えば納得かもしれない。


 瑳希を追う者の声を少しだけ遠くなった気がする。


 すると、彼の瞳が真っ直ぐと私を捉えた。

 私の口元を覆っていた彼の右手が、ゆっくりと放されてると、彼はそのまま私の髪を弄ぶ。


「狭いな。凛の心臓の音が聞こえそうだ」


「そ、それを言うなら、瑳希の心臓じゃないの!」


「お前は本当、強情だなぁ〜」


「何よ、瑳希が強引なんでしょ!」


「はいはい、なんでもいいよ」


「んもう。瑳希ってば、そうやっていつも──」


 ふと、瑳希が私の頬に触れる。


「いつも、なに?」と、瑳希が首を傾げながら、声色を一段低くする。お腹の底に響くような瑳希の声は、たまに私の体をおかしくしてしまう。


「だぁ〜から、いつも、なに?」

 絶対に言わせる──狩りをする山犬のようが獲物を追い詰めるように、瑳希から有無を言わさぬ気配が流れてくる。

 とくんと甘く胸の中で花が咲く。だめだよ。こんなに近くで『好きだよ』って顔をしたら、勘の良い瑳希に気づかれちゃうもん。

 きゅう、と恥ずかしさから喉がなりそうになってしまう。


「いつも……私を揶揄うんだから……」


「揶揄ってない。可愛いだけ……」


「え……?」


 今、瑳希はなんて言ったの?


「お前が、可愛いだけだよ。バァカ」


 瑳希はバツが悪そうに視線を外す。その頬が少しだけ高揚しているように見える。

 ねぇ、どうしてそんな顔をするの? 私、自惚れちゃうよ?


「瑳希、照れてるの?」


 なんだか、今度は瑳希の方が可愛い反応をするから、私は思わず笑ってしまった。


「うっるせーな。可愛くねぇ女……」


「っ! さ、さっきは『可愛い』って言われたもん!」


「オレが揶揄ってる時だけ! な!」


 いつもよりもムキになって、瑳希が口を尖らせる。そんな彼が愛おしすぎて、やっぱり私は笑ってしまう。すると、瑳希の手が私の手のひらを包み込んだ。指を絡めるように、彼がぎゅっと私の手の握りしめる。


「なぁ、なんで旅なんかしてんの?」


「え? な、なんで?」


「別に、気になっただけ。用心棒まで連れて、なんで旅してんの?」


「わ……私ね、夢があって……」


「夢?」


「わ、笑わない?」


「あー、どうかなぁ〜。笑うかも?」


 瑳希が揶揄うように笑う。私は握られた手にギューっと力を入れて、瑳希を見つめ返した。


「わ! ら! わ! な! い! よ! ね!?」


「はいはい」と、瑳希の声色と瞳は優しく緩む。


「あのね。私ね──自分の瞳で世界を見たいの。私は私の肩書きとしてじゃなくて、一人の人間としての生き様を示したいの。そして、私の正義の名の下に、世の中に触れたいの」


 若気の至りと周りの大人からは、たくさん笑われた。

 だから、私の夢を声にするときは、いつだって少し怖くなる。私は恐る恐る瑳希へと視線を戻した。彼は笑っているだろうか、呆れているだろうか。


 だけど瑳希は、とても穏やかに微笑んでいた。


「いいと思う」


 それだけ言うと、瑳希はおもむろに握りしめていた私の手を持ち上げて、私の手の甲に彼の唇を押し付けた。

 ふにっとした感触は、温かくて柔らかくて。

 瑳希は私の手の甲に口づけを落としたままで、じっと私の瞳を見つめ返した。

 射抜かれる──彼に全てを。


「お前みたいな女、はじめて見た」


「笑わない? 変じゃない?」


「変なわけあるかよ。いいと思う」


 彼が肯定してくれる。私の生き方を認めてくれる。

 それがどれだけ嬉しいことか、きっと彼は知らないだろう。

 それだけで天にも昇るほどに嬉しかったのに、彼は続けてこう言った。


「オレ、凛のそういうところ……すげー好き」


「っ! 瑳希──!? わ、私……だけど──!」


「いい。何も言うな。応えなくていいから、目、閉じろ」


 彼に命令されるがままに、私は頷いて瞳を閉じる。


「力、抜いてろ」


 そして、さっきまで私の手の甲を這っていた彼の唇が、今度は私の唇に落とされた。


 一回目は私の存在を確かめるみたいに、優しかった。男の人とのはじめて触れ合いに、胸が締め付けられるように苦しくなる。びっくりしちゃって、握りしめていた瑳希の手のひらを、ぎゅっと強く握り返した。

 二回目の接吻キスは、瑳希らしくて強引だった。強く押し付けられて、私の唇を割るように、瑳希の唇が私の唇を覆う。食べられちゃいそうになりながら、瑳希が私を欲してくれるたびに、体の力が抜けていった。握っていた手のひらが離れそうになると、瑳希が再び強く握り返してくれる。

 彼は私の唇を喰むように這わせていって、そしてついに、彼の舌先が私の舌先に触れた。私は驚いて、背中を飛び跳ねさせる。


 それでも、瑳希はやめてくれない。


 やっぱり、瑳希は強引なの。

 それなのに、動きのすべてが優しいから、私はすっかり絆されてしまった。


 数え切れないくらいの接吻から解放されたとき、私の気持ち溢れていく。

 言いたい。『愛しているんです』って。

 だけど、言えないよ。だって、『愛しています』ってあなたに言う資格が私にはないから。


「私、瑳希と一緒にいるのが好きなの」


「バァカ。オレもだよ……」


 そして私たちはもう一度唇を重ねた。


 これが、許されない恋だとわかっているけれど。


 ごめんなさい。

 私、あなたのことが大好きになっちゃったの。





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