パトリシアは、彼女だった
パトリシアという名の、小さな女の子がいた。貴族らしい縦ロールの金髪に、しとやかな信心深さをたたえた子だった。
少女は町の川に映る自分の姿を見つめた。頬は腫れ上がり、緋色に染まっている。涙をいっぱいにたたえた、深いルビー色の瞳とよく似た緋色に。
人の温もりというものを、あまり知らない子だった。最後に抱きしめられたのがいつだったか、思い出すのも難しい。ひとりぼっちで、痛みを抱きしめて消してくれる人もいない彼女が知っているのは、殴られる感覚だった。そして、その一撃に潜む銀の痛み。冒険者仲間にどれほど酷使され、虐げられようとも、このトラウマですべての記憶が失われようとも、決して忘れないであろう三つの掟があった。
新王国における吸血鬼の新法:
一、他者の血を吸うべからず
二、己の眷属が生まれし時は、これを葬るべし
三、飢えに狂い渇血に至りし時は、その身を葬られるべし
いずれかを破れば、死罪に処される。
三十年前、日光の下でも生き延びることのできた、美しくも残酷な吸血鬼がいた。罪を重ねながら王国じゅうで暴れ回った彼は、王座に就き、人間たちを家畜にした。だが家畜たちは、吸血鬼に備わるもうひとつの性質を見逃さなかった。銀による責め苦だ。吸血鬼王に残されたその弱点を人間たちが突いたとき、暴君の無敵の支配は覆された。
人間たちは抑圧者を抑圧し、新たな秩序を築いた。新王国は、すべての民に、銀を微量に含む身分証を携帯するよう奨励した。
そのため、幼い吸血鬼パトリシアは常に生まれ持った弱点と向き合い、絶えず危険にさらされていた。
王国は冒険者たちに、新法を破った吸血鬼を殺す全面的な権利を与えていた。見分けるのも簡単だった。狂乱に陥った吸血鬼は、舌の色が変わるからだ。色の変わった舌は、ルビー色の瞳と並んで、珍重される戦利品だった。
人を惑わすこのルビー色の瞳を、パトリシアはいっそ持たずに生まれたかった。
視界がかっと燃え上がり、飢えを告げる妖しい光の筋が、脳の奥へと走る。お腹が空いた。この呪われた身体。
火あぶりにされた魔女たちと同じように、吸血鬼の美しさもまた呪いだった。多くの吸血鬼が、使用人の身に甘んじていた。貴族たちにとって、それは理想的な職業だった。吸血鬼は目の保養になるうえに、心にも身体にも決して触れることの許されない人間たちに尽くしてくれるのだから。
吸血鬼と呼ばれる少数派にとって、その扱いは奴隷の一歩手前だった。
パトリシアは、メイドという仕事をそこまで厳しい目では見ていなかった。優しさで誰かひとりの幸せに貢献できるなら、それは祝福に値する偉業だ。ひとりの人に身を捧げるなんて、すごいことだ。
けれど、メイドと冒険者のどちらかを選ぶなら、勝者ははっきりしていた。ダンジョン探索は、彼女の種族にとって最も尊敬される職業だったのだ。ダンジョンで名高いゼラスへの旅に出たとき、本当にそれ以上の意味はないはずだった。
この港町へ向かう道中、一体の魔物が彼女を待ち伏せし、無力感を骨の髄まで叩き込んだ。吸血鬼の力は、本来なら決して侮れるものではない。魔物がいつも銀を持っているわけでもない。けれど、吸血鬼の真の力が発揮されるのは、狩りの最中、渇血状態に入った時だけだ。そして、その状態に入ることは新法で禁じられている。この理不尽な窮地において、パトリシアはごく普通の少女と何も変わらなかった。
どれだけ攻撃しても、魔物にまともな傷ひとつ負わせられない。本物の戦いを通して、自分の弱さを思い知らされた。
鉤爪がまたしても小さな身体を打ち据え、木々に叩きつけた。
力を抑えたりしなかったとしても、勝ち目はあっただろうか?
選択肢は二つ。あるいは、ないも同然だった。今ここで魔物の爪にかかって死ぬか、あとで人間の爪にかかって死ぬか。
パトリシアは憤っていた。
このチェス盤のような世界で、吸血鬼の王はとうに倒されている。なのにどうして、どうして世界はいつも彼女をチェックで追い詰め、チェックメイトの牙をむき、喉笛に喰らいついてくるのだろう? 吸血鬼は彼女のほうのはずなのに……!!
高々と吊り上げられ、締めつけられた首のまわりで血が固まっていく。
決めきれずにいるうちに、死神が代わりに決めた。
その時、パトリシアの息の根を止めようとしていた太い腕を、刃と鎖が斬り飛ばした。
王国の英雄、七傑のひとりが、彼女を救ったのだ。
美しい長い髪の少女。その誉れ高き名は、アイラ――
……
「お、お嬢様じゃないか!」
「あなたの話に出てくるお嬢様とは、絶対に別人よ。お願いだから、わざわざわたしの英雄を貶めるのはやめてくれないかしら?」
「七傑なんて、そう何人もいないだろ」
「どうせ、あなたの下手くそな嘘のために、アイラ様の姿を勝手に借りたんでしょう」
「なんなら、今ここでエメラルドを試してみてもいいぜ」
「勘弁して。その中に本当はどんな邪悪な魔法が宿ってるかなんて、知りたくもないわ」
「うわ、毒舌だな。いじめっ子どもの前じゃなんであんなに従順なのかと思ってたけど、誰もいないとこじゃこうなんだな」
それはつまり、コリンがほかの誰も見たことのないわたしの一面を見ている、ということだった。
あの男、ほんっとうに腹が立つ! 好きじゃない。ああもう、ほんっっとうに好きじゃない!
怒りで頬が熱くなるのを感じた。飢えを告げる妖しい光の筋が、視界を覆っていく。
「二度と邪魔しないで。わたしの話でもてなしてほしいんでしょう? だったら黙って聞いているのが身のためよ」
……
パトリシアを救ったとき、アイラは刃から信じられないほど強力な溜め撃ちを放ってみせた。そして鎖を鳴らしながら、あなたにも同じくらい強くなれる素質がある、とパトリシアに告げたのだ。
「まだレベル1なのに、わたくしが駆けつけるまでにあれだけの傷を負わせたのね。興味深いわ。大きな魔物に立ち向かうのは見上げた行いよ。もっと自分を大切になさい。あなたが何者になるのか、見てみたいの。あなたには、わたくしのように輝ける素質があるわ」
ひとりの人に身を捧げるだけでも、すごいことなのに。アイラは、すっごくたくさんの人に頼りにされていた。
パトリシアが目指していたのは、ただいちばんましな代わりの職業を見つけること、ごく平凡な冒険者になることだけのはずだった。
自分の胸がこんなふうに高鳴るなんて、パトリシアは思ってもみなかった。
感情に呑まれたまま、夢見心地で街へたどり着いた。ギルドに登録しようとしたが、建物の扉の前でふと足が止まる。こんなに浮き足立って、どうしたというの?
考えることを放棄しないよう、心に留めておこう。自分が何を目指すのか、きっちりと、正しく答えを出した。
身なりを整え、縦ロールに再び艶が戻ると、胸を張ってギルドの床板を歩き、傭兵向けの依頼書に目を通した。ひとりでダンジョンに潜っても、強い魔物とはうまく戦えないとわかった。だから、受け入れてくれる人なら誰でもいいと、見習いの身に甘んじた。
もちろん、その結果、現実という戦槌が振り下ろされ、彼女の夢は打ち砕かれた。
パーティーの仲間たちは、彼女を荷運びのラバとしてこき使った。
汚いものみたいに扱われると、身ぎれいにしていることにも意味がなくなった。自分の一部が腐ってしまった気がした。ひどい気分だった。
踏みとどまらなければ、人はこうやって堕ちていくのだ。彼女にはそれがわかっていた。
いじめっ子たちは知る由もなかった。抑圧の輪は、時を超えて回り、回り続けるということを。それはいずれ、彼ら自身に牙をむくのだ。
そんなパーティーは、はっきり言って、いつ破滅してもおかしくなかった。




