第七十三話 悪姫羅刹
日が沈む前に、ヴァルグラムは村の守りを固めた。
兵糧を積んだ荷馬車は一か所へ集めず、村の広場と街道沿いの空き地へ分けた。荷台には水を含ませた布を被せ、近くには水を満たした樽を並べる。
村の中央には、兵糧を積んでいるように見せかけた荷馬車を置いた。
荷台に載せてあるのは、土を詰めた麻袋と濡れた藁だ。
周囲の家屋には弓兵を潜ませた。
敵が兵糧を狙うなら、最も目立つ荷馬車へ近づくはずだ。
馬房にも兵を配置したが、数は最低限に留めた。馬が騒ぎ出しても、持ち場を離れないよう全軍へ命じてある。
ここ数日、敵は何度も馬を暴れさせてきた。
今夜も同じ手を使う可能性は高い。
だが、それだけで終わるはずがない。
馬を限界まで疲れさせ、無人の村へ王国軍を誘い込んだ。敵は今夜、必ず仕掛けてくる。
「川向こうへ出した斥候は戻ったか」
ヴァルグラムが尋ねる。
「まだ戻っておりません」
副官が答えた。
「予定の時刻を過ぎているな」
「もう一隊、出しますか」
「いや。森の中で待ち伏せされている可能性がある。これ以上、兵を小分けにするな」
ヴァルグラムは暗闇に沈む大橋を見た。
昼間に調べた限り、橋にも川向こうの森にも敵の姿はなかった。
しかし、見つからなかったことと、いないことは同じではない。
「全隊に通達。何が起きても、命令なしに持ち場を離れるな」
「はっ」
♢
夜が更けても、村は静かなままだった。
家屋の中には明かりを置かず、広場の篝火も数を減らしてある。
兵たちは鎧を着たまま、武器を手に敵を待っていた。
疲労の溜まった馬だけが、ときおり落ち着きなく蹄を鳴らす。
――カツ、カツ……。
何も起こらない時間が続いた。
警戒を命じられた兵たちの間に、僅かな緩みが生まれ始める。
そのとき、馬房の方角から大きな嘶きが上がった。
ヒヒィィィンッ!
一頭ではない。
何十頭もの馬が、一斉に暴れ出した。
ドドドドドッ!
蹄が地面を打ち、木柵が軋み、鎖がけたたましく鳴り響く。暗闇の中で馬たちの白目が浮かび、恐慌に駆られた巨体が柵へ何度も体当たりを繰り返した。
ドンッ! ドンッ! ミシミシッ!
「馬房で異常です!」
伝令が駆け込んでくる。
「配置した兵だけで対処させろ。ほかは動くな」
ヴァルグラムは即答した。
「しかし、このままでは馬房が――」
「敵は、我々が馬へ兵を集めるのを待っている」
言い終えた直後、村の中央で火が上がった。
ボウッ!
兵糧を積んだように見せかけた荷馬車である。
油を含んだ布が一瞬で燃え上がり、赤い炎が荷台から噴き出した。闇を裂く火の粉が舞い、周囲の兵の顔を不気味に照らす。
「かかったぞ!」
隠れていた王国兵が、一斉に家屋から飛び出した。
火を放った者たちの退路を塞ぎ、槍を向ける。
黒装束の襲撃者たちは、王国兵に囲まれていた。
「捕らえろ!」
号令と同時に、弓兵が矢を放つ。
ヒュンッ! ヒュヒュンッ!
弦が鳴り、矢が闇を裂いた。襲撃者たちは身を低くして散開し、飛来した矢を紙一重でかわしながら荷馬車の陰へ飛び込んだ。
その動きは速い。
だが、逃げ道は既に塞いである。
ヴァルグラムは大剣を抜き、包囲の中へ歩み出た。
「随分と長く、我々の馬を可愛がってくれたようだな」
襲撃者の一人が短剣を構え、ヴァルグラムへ向かってきた。
男の肩が跳ね、短剣が喉元を狙って閃く。
ヴァルグラムは一歩踏み込み、大剣を振り下ろした。
ガキィンッ!
刃と刃が噛み合った瞬間、短剣が砕け、衝撃に弾かれた男の身体が地面を転がる。
ゴロゴロッ!
別の男が背後へ回ろうとする。
ヴァルグラムは足音だけで気配を察し、身体を反転させた。大剣が唸りを上げて横薙ぎに走る。
ブォンッ!
男は避けきれず、鎧ごと斬り裂かれた。
ザシュッ!
ほかの襲撃者たちが動きを止める。
その僅かな間に、王国兵が包囲を狭めていく。槍の穂先が一斉に前へ出され、逃げ場を削り取っていった。
「将軍!」
今度は、街道沿いの空き地から火の手が上がった。
本物の兵糧を積んだ荷馬車が狙われている。
火矢が荷台へ突き刺さり、炎が布の端を舐めていた。火の粉が風に煽られ、乾いた藁へ次々と飛び移っていく。
パチパチパチッ!
「慌てるな! 水を含ませた布を外すな! 火のついた荷だけ切り離せ!」
備えていた兵たちが、すぐに消火へ動いた。
だが、炎の向こうからさらに矢が飛び、兵の足元へ突き刺さる。誰かが悲鳴を上げ、桶を取り落とした。水が地面へ広がり、燃えた布が風に煽られてばたばたと鳴る。
火は荷台の表面を焦がしたが、中の兵糧までは届いていない。
襲撃者が使った油も、水を含んだ布に阻まれて流れ落ちる。
ヴァルグラムは包囲された者たちへ向き直った。
「これで終わりか?」
「いいえ。始まったばかりよ」
女の声が、頭上から降ってきた。
ヴァルグラムが見上げる。
金色の髪を一つに束ねた少女が、家屋の屋根に立っていた。
黒い衣服に身を包み、抜き身の剣を下げている。
「ヴィオレッタ・ヴァレンシュタイン」
その顔には見覚えがあった。
王都の式典で、何度か見たことがある。
いずれ王子の妃になると噂されていた、公爵家の令嬢だ。
屋根を蹴り、ヴィヴィが飛び降りる。
ヒュッ!
落下の勢いを乗せた斬撃を、ヴァルグラムは大剣で受けた。
ガキィィンッ!
甲高い音が村中へ響く。
少女の細腕から放たれたとは思えない重い一撃だった。
ヴァルグラムが大剣を押し返す。
ヴィヴィは逆らわずに後方へ跳び、着地と同時に踏み込んできた。
剣先が黒い鎧の隙間へ伸びる。
ヴァルグラムは刃の腹で弾き、そのまま大剣を振り下ろした。
ヴィヴィは紙一重で身を躱す。
地面を砕いた大剣が、止まることなく斬り上げへ転じた。
ズガンッ!
ヴィヴィの剣が、その一撃を受け流す。
先ほどまで重かった剣が、今度は羽のように軽く動いていた。
剣の重さを変えている。
ヴァルグラムが気づいたときには、ヴィヴィが懐へ入っていた。
脇腹へ向かう刃を、大剣の柄で受ける。
キンッ! ガキンッ!
二人の間で、何度も火花が散る。
ヴィヴィは大剣を正面から受けない。
刃の軌道から身体を外し、振り終えた直後だけを狙って踏み込んでくる。
ヴァルグラムが力で押し切ろうとすれば、剣を軽くして受け流す。
動きを止めようとすれば、重さを戻した一撃が鎧を叩く。
ドゴンッ!
王国でも屈指の実力を持つヴァルグラムにとって、かつてない手応えだった。
「智将でありながら、剣技にも優れるか」
ヴァルグラムの口元に笑みが浮かぶ。
「貴様、本当にあのヴィオレッタ公爵令嬢か?」
「さあ。本人に会ったことがあるの?」
「王都で何度かな。少なくとも、剣を握る娘には見えなかった」
「だったら、人を見る目がなかったのね」
ヴィヴィの剣が加速する。
シュッ! シュシュッ!
ヴァルグラムも大剣を振るう。
次はどこを狙う。
この速さへ、どう合わせる。
剣を交えるたび、ヴァルグラムの胸が昂った。
将軍としてではない。
一人の武人として、この強敵との戦いを楽しみ始めていた。
それは、ほんの僅かな間だった。
だが、ヴィヴィには十分だった。
「いいの? 私なんかに集中してて?」
ヴァルグラムの笑みが消える。
ヴィヴィが大きく後方へ跳んだ。
追おうとしたヴァルグラムの耳に、地を揺らすような声が届く。
「弓隊、撃ち方始め!」
鷹継の号令が、夜の村へ響き渡った。
川向こうの森に、無数の火が浮かび上がる。
「くっ、倭国軍か! どこに潜んでおった!」
問いに答える者はいない。
次の瞬間、森の奥から一斉に弦音が弾けた。
ギリギリギリ……。
無数の弦音が重なり、夜気を震わせる。
放たれた火矢が夜空へ昇り、赤い雨となって村へ降り注ぐ。
ヒュオオオオッ!
炎をまとった矢が風を切り、尾を引く火の粉が闇の中で幾筋もの赤い線を描いた。一本、二本ではない。視界を埋め尽くすほどの火矢が、兵たちの頭上へ迫ってくる。
「盾を上げろ! 火矢だ!」
ヴァルグラムの怒声が飛ぶ。
王国兵が反射的に盾を掲げた。
直後、火矢の雨が大地へ叩きつけられた。
ザザザザザッ!
盾へ突き刺さった矢が火花を散らし、衝撃で兵の腕を跳ね上げる。盾の隙間を抜けた矢が肩や喉へ食い込み、悲鳴があちこちで上がった。火矢はプレートメイルさえ貫いて兵を倒した。
外れた矢は家屋の屋根や荷馬車へ突き立つ。
乾いた藁へ火が移り、村の各所から炎が噴き上がった。
ボンッ! パチパチパチッ!
屋根が赤く染まり、窓から炎が吹き出す。煙が一気に広がり、兵たちの視界を奪った。誰かが敵の位置を叫び、別の場所では味方を呼ぶ声が重なる。命令も悲鳴も蹄の音も、燃え盛る木材の爆ぜる音に呑み込まれていった。
消火に備えていた兵も、降り注ぐ矢の中では動けない。
水桶を抱えた兵が足を止めた瞬間、その背後の地面へ火矢が突き刺さる。驚いて桶を落とすと、こぼれた水が炎を映し、赤く揺れた。
馬房から柵の壊れる音が響く。
バキバキバキッ!
繋がれていた馬が炎に怯え、次々と村の中へ飛び出してきた。
鎖を引きずった馬が兵の列へ突っ込み、盾を弾き飛ばす。別の馬が燃える荷馬車へ体当たりし、炎の塊となった藁が宙へ舞った。逃げ惑う兵たちは互いにぶつかり、整えかけた陣形が瞬く間に崩れていく。
「部隊ごとに固まれ! 馬を追うな! 負傷者は家屋の陰へ運べ!」
ヴァルグラムは混乱の中でも命令を飛ばした。
だが、その声さえ火矢の着弾音と怒号にかき消される。聞き取った兵が隣へ伝え、さらにその隣へ叫ぶ。途切れ途切れの命令がようやく広がり、兵たちは盾を重ね、少しずつ陣形を作り始める。
その間に距離を取ったヴィヴィの周囲へ、淡い光が集まっていた。
妖精たちだ。
リリを先頭に、シャル、シル、シュル、シェルがヴィヴィの周りを舞う。
さらに馬房の屋根を突き破り、白い巨体が飛び出した。
ズドォンッ!
「グルァッ!」
モカがヴィヴィの傍らへ着地する。
落下の衝撃で地面が揺れ、周囲の火の粉が跳ね上がった。白い毛と前脚は返り血で赤く染まり、その爪には藁が絡みついていた。
燃え盛る村。
降り注ぐ火矢。
炎に照らされた黒衣の少女と、その周りを舞う妖精たち。
傍らには、血に濡れた白い魔獣が牙を剥いている。
その姿は妖艶で、見る者に恐怖と畏怖を抱かせた。
ヴァルグラムでさえ、一瞬、言葉を失った。
ヴィヴィがモカの背へ飛び乗る。
「全隊、撤収」
リリたちが一斉に飛び立った。
モカが燃え上がる屋根を蹴り、火矢の雨を飛び越えていく。
ドンッ!
ヴィヴィが一度だけ振り返る。
炎に照らされた顔には、薄い笑みが浮かんでいた。
やがて黒衣の少女も、血に濡れた白い魔獣も、夜の森へ消えていく。
あとに残ったのは、燃え盛る村と、混乱する王国軍。
そして、どこからともなく響き続ける妖精たちの笑い声だけだった。
第七十三話・了
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