第六十二話 欠けた一片
ゲームだった頃、王国はいつも華やかで美しかった。
王都の大通りには色鮮やかな花が飾られ、宮殿では季節ごとに舞踏会が開かれる。貴族たちは美しい衣装をまとい、騎士たちは磨き上げられた鎧を身につけていた。
戦争なんて、一度もなかった。
実際には、描かれなかっただけで、どこかで起きていたのかもしれない。
けれど、私の知る王国に、こんな場所はなかった。
「聖女様、どうか弟を……!」
女の人が泣きながら縋りついてくる。
その後ろには、戸板へ乗せられた若い兵士がいた。腹部へ巻かれた布は赤黒く染まり、浅い呼吸を繰り返している。
私は兵士の傍らへ膝をつき、傷口へ両手をかざした。
祈りの言葉を唱えると、白い光が掌から溢れ出す。裂けた肉が塞がり、苦しげだった呼吸が少しずつ落ち着いていった。
「もう大丈夫です」
「ああ……ありがとうございます! ありがとうございます、聖女様!」
女の人は何度も頭を下げた。
兵士を乗せた戸板が運び出される。
その向こうから、次の怪我人が運ばれてきた。
その後ろにも人がいる。
さらに、その後ろにも。
ミエリッキから戻った兵士だけではない。夫や父親を失った家族、住む場所を追われた人、満足な食事を得られず病に倒れた子供までいた。
朝から何人を癒やしたのか、もう覚えていない。
一人を治せば、次の人が来る。
その人を治して顔を上げると、列は少しも短くなっていなかった。
「聖女様」
「こちらもお願いします」
「娘が熱を出しているんです」
「聖女様、聖女様……」
あちこちから私を呼ぶ声がする。
伸ばされた手が、私に触れようとする。
助けを求める顔が並び、じっと私を見つめていた。
息が詰まりそうだった。
どうして、こんなにいるの。
ゲームでは、怪我人を治せばみんな笑顔になった。感謝の言葉をもらい、音楽が流れ、そこで場面は終わった。
こんなふうに、いつまでも続いたりしない。
「聖女様。少しお休みになられては」
付き添っていた神官が声をかけてくれた。
私は頷きかけ、列の先頭にいる子供と目が合った。
母親に抱かれた小さな男の子が、熱に浮かされながら私を見ている。
「いいえ。続けます」
自然と、そう答えていた。
私は聖女なのだから、見捨てることはできない。
男の子の額へ手を置き、また祈りを唱える。
白い光が溢れると、周囲から安堵の声が上がった。
みんなが私を褒めてくれる。
さすが聖女様だと、涙を流して感謝してくれる。
それなのに、少しも嬉しくなかった。
治しても、治しても、人が減らない。
まるで、この世界すべてが病気になってしまったようだった。
◆
日が沈んでから、ようやく部屋へ戻ることができた。
椅子へ腰を下ろしても、耳の奥にはまだ私を呼ぶ声が残っている。
聖女様。
聖女様。
どうかお助けください。
両手で耳を塞いだところで、扉が叩かれた。
入ってきたのは王子だった。
「よく務めを果たしてくれた。多くの者が救われたと聞いている」
「当然のことをしただけです。私は聖女ですから」
そう答えると、王子は満足そうに頷いた。
以前なら、その顔を見られただけで嬉しかったはずなのに、今は何も感じなかった。
王子の後ろに、騎士団長の姿はない。
最近はいつもそうだった。呼んでも王都の守備を理由に断られ、以前のように私の護衛をしてくれなくなった。
これも、本来のゲームにはなかったことだ。
「それと、東方への出兵が決まった」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「また、戦争をするんですか?」
「王国の威信を取り戻さねばならない。ミエリッキでの敗北は、魔国が介入したためだ。東方であれば、魔国も容易には兵を送れない」
「そうですか」
私は窓の外へ目を向けた。
暗くて、何も見えない。
明日になれば、また大勢の人が私を待っている。
東方で戦争が始まれば、あの列はもっと長くなるのだろうか。
考えたくなかった。
「……どうして、こんなことになったんでしょう」
「何がだ?」
「王国です。私が知っている王国は、もっと美しい場所でした。みんなが笑っていて、戦争なんてありませんでした」
「何を言っている?」
王子には分からない。
この世界が本当は、どれほど美しかったのか。
私はずっと考えていた。
ヴィオレッタが追放されたあと、私と王子は結ばれるはずだった。騎士団長も私を認め、王国には幸せな未来が訪れる。
それですべて完成するはずだった。
なのに、ヴィオレッタは死ななかった。
「パズルと同じなんです」
「パズル?」
「本当なら、すべてのピースが正しい場所に嵌まって、一枚の美しい絵になるはずでした」
王子が黙って私を見る。
「でも、一つだけ嵌まらなかったんです」
「何がだ?」
「ヴィオレッタの死です」
あの女は、滝壺へ落ちて死ぬはずだった。
そこでヴィオレッタの役目は終わるはずだった。
けれど生き延びて、ゲームにはなかった場所で、ゲームにはいなかった人たちと出会っている。
そのせいで、次のピースを置く場所がなくなった。
一つずつ、少しずつ、すべてがずれ始めた。
騎士団長は私から離れ、王国は戦争に敗れ、大勢の人が傷ついた。そして今度は、知らない東方の国とまで戦おうとしている。
「ヴィオレッタが、王国をこんな姿にしたんです」
「彼女一人に、そのようなことができるはずがない」
「いいえ。あの人がいるから、世界が正しい形へ戻れないんです」
間違っているのは私ではない。
この世界の方だ。
けれど、壊れてしまったわけではない。
「まだ間に合います」
私は王子の手を取った。
「足りなかったピースを、今からでも正しい場所へ嵌めればいいんです」
王子の指が、わずかに強張った。
「……ヴィオレッタを、殺すというのか?」
「はい」
王子は何も答えなかった。
それでも、私の手を振りほどこうとはしなかった。
「ヴィオレッタを殺せば、世界は完成するんです」
第六十二話・了
ここまで読んで頂き、ありがとうございました!
「続きが読みたい!」「面白かった!」と思っていただけたら、
ページ下部にある**【★★★★★】評価や【ブックマーク】、【いいね】**を押していただけると更新の励みになります!
特に★評価とブックマークは作品のランキングに直結するため、応援していただけると本当に嬉しいです!




