第六十話 白い影
あれから半年が過ぎた。
森は一面の雪に覆われている。
降り積もった雪の上には、蹄に似た大きな足跡が続いていた。前方へ目を凝らすと、木々の隙間に黒い影が見える。
大猪だ。
それも、かなり大きい。
雪の下に埋もれた木の根を、牙で掘り返している。盛り上がった肩は分厚い毛と脂肪に覆われ、首も太い。正面から突進を受ければ、並の冒険者など簡単に跳ね飛ばされるだろう。
私は風下へ回り込み、木の陰から改造クロスボウを構えた。
距離は十分。
こちらには気づいていない。
猪が顔を上げるのを待ち、照準を頭部へ合わせていく。
呼吸を止め、引き金へ指をかけた。
その瞬間だった。
視界の端を、白い影が横切った。
「ブギィッ!?」
雪煙が弾け、大猪の巨体が真横へ吹き飛ぶ。
地面へ倒れた猪は、何が起きたのかも分からないまま四肢をばたつかせた。だが、白い影はすでに首筋へ牙を突き立てている。
猪が暴れる。
白い前脚が肩を押さえ込む。
爪が食い込み、分厚い身体が雪へ沈んだ。やがて猪の動きが鈍くなり、そのまま完全に止まる。
白い影は獲物の首を咥え直すと、私の照準の外へ引きずっていった。
「……」
私はクロスボウを構えたまま、しばらくその場に立っていた。
今の獲物は、私が狙っていたはずだ。
木の陰から出て、雪の上に残った跡を追う。
猪の巨体を引きずった跡はあるのに、その横には足跡がほとんど残っていない。雪の上を選んで歩き、体重を分散させているのだ。
やがて少し開けた場所へ出る。
倒れた大猪の横に、一頭の白い魔獣が立っていた。
全身を覆う長い毛は、降り積もった雪よりも白い。その下には、しなやかな筋肉が詰まっている。肩から腰へ続く身体は細身に見えるが、決して華奢ではない。
太い四肢と、雪へ沈みにくい幅広の足。
猪の首を容易に貫いた牙。
爪は普段こそ毛の間に隠れているものの、ひとたび飛び出せば大木の幹にも深い傷を残す。
生まれたばかりの頃、私の両手に収まっていた姿はもうない。
成獣にはまだ遠い。それでも、背の高さは大型犬を大きく超え、小柄な馬に近づきつつある。
ヴァイスティーガーのモカだ。
その頭の上には、当然のようにリリが乗っていた。
「モカ、すごいでしょー!」
リリが白い毛を両手で掴み、得意げに胸を張る。
モカも褒められると思っているらしい。猪から口を離し、尻尾を立てて私を見た。
「ええ。すごいわ」
尻尾がゆっくりと左右へ揺れる。
「でも、それは私が狙っていた獲物なんだけど?」
尻尾の動きが止まった。
モカは顔を逸らした。
「モカ?」
白い耳が、私の声に反応して小さく動く。
「聞こえているでしょう?」
今度は耳まで伏せた。
人の言葉を話すことはできないが、こちらの言っていることは理解している。
生まれて間もない頃から私たちと暮らし、毎日のように人の会話を聞いてきた。加えて、頭の上にいるリリは《妖精の声》で頻繁に話しかけている。
右、左、待て、戻れ。
簡単な指示なら、ほぼ間違えることはない。
それどころか、ときどき、そんな言葉まで理解しているのかと思わされることがある。
「仕留めたのはあなたなのだから、運ぶところまでお願いね」
モカは大猪へ視線を戻した。
少し考えるように鼻を動かしてから、首へ噛みつく。そのまま私へ背を向け、来た道を戻り始めた。
やはり、理解しているのだろう。
「リリ。右側を見ておいて」
「わかったー!」
リリがモカの頭上から周囲を見渡す。
雪に覆われた森の中を、モカはほとんど音も立てずに進んでいった。大猪を引きずっているため獲物を引きずる音は響いているが、モカ自身の足音は聞こえない。
柔らかな足裏で雪を踏み、木の根や凍った地面を避けている。
これで獲物を引きずっていなければ、白い姿を見つけることさえ難しいだろう。
◆
野営地へ戻ると、最初に気づいたのはオルドだった。
「随分とでかいのを仕留めたな」
猪を見る目が、明らかに輝いている。
モカではなく、肉を見ている目だ。
「モカが横から持っていったのよ」
「ははは、それは獲った者の勝ちだ」
「私が先に狙っていたんだけど?」
「仕留めてはいないんだろう?」
オルドは私の抗議など気にせず、猪の状態を確かめ始めた。
「傷も首だけか。余計なところを食い破っていない。上出来だ」
褒められたモカが、得意げに胸を張る。
「毛皮も使える。肉も相当取れそうだ。内臓も傷んでいないな」
「モカ、えらいー!」
リリが頭の上から白い毛を叩く。
そこへ、薪を抱えたバルガスが戻ってきた。
「なんだ、この馬鹿でかい猪は」
「モカが仕留めたのよ」
「こいつが?」
バルガスが猪とモカを見比べる。
「ずいぶんでかくなったとは思ってたが、本当に力だけは一人前になりやがったな」
モカがゆっくりと顔を向けた。
白い唇が持ち上がる。
鋭い牙が剥き出しになり、喉の奥から低い音が響いた。
「ぐろろろろ……」
バルガスの動きが止まる。
「……おい。今の言ったこと、分かったのか?」
「ぐろろろろ……」
「待て待て。馬鹿にしてねえよ。褒めたんだ。力だけじゃなくて、立派に育ったって意味だ」
モカの唸り声は止まらない。
「お前らも見てねえで、なんとか言ってくれよ」
「自分で謝れば?」
「だから褒めたんだって!」
バルガスが困った顔で周囲を見る。
だが、リリはモカの頭の上で笑い、ガイルも助ける気はないらしい。トッドは焚き火の側で肩を揺らしていた。
「大体、いくら力があっても、俺のメイスは持てねえだろ」
バルガスが、自分の荷物の横へ立てかけてある巨大なメイスを指す。
モカの唸り声が止まった。
顔だけを動かし、メイスを見る。
次にバルガスを見た。
「お?」
モカは猪から離れ、メイスの側まで歩いていった。
柄の中央へ口をかける。
そのまま、何事もなかったように持ち上げた。
「おい!?」
巨大な鉄塊が、モカの口からぶら下がっている。
首が少し沈んだだけで、足取りに乱れはない。そのままバルガスの前を通り過ぎ、野営地の反対側へ歩いていく。
「待て! それは俺のだ!」
バルガスが慌てて追いかける。
「返せって! 悪かった! お前は力も強いし、頭もいい! だから返してくれ!」
モカは一度振り返った。
バルガスが自分を追っているのを確かめると、メイスを咥えたまま歩調を速めた。
「絶対分かってやってるだろ、こいつ!」
「モカ、もっと右ー!」
頭の上からリリが指示を出す。
モカは迷うことなく右へ曲がり、木の間へ逃げ込んだ。
「リリ! お前もそっち側なのかよ!」
バルガスの叫び声が、雪の森へ響いていった。
◆
猪の解体が終わる頃には、モカもメイスを返していた。
オルドから大きな肉の塊と処理した内臓をもらい、今は焚き火の近くで満足そうに食べている。バルガスは戻ってきたメイスに傷がないか、何度も確かめていた。
「噛み跡もついていないでしょう?」
「分かってても気になるんだよ。俺の相棒だぞ」
「モカも遊んだだけよ」
「人の武器を持ち逃げする遊びなんて、誰が教えたんだ」
バルガスがリリを見る。
「リリ、知らなーい」
明らかに楽しんでいたが、最初に考えたのはモカだろう。
食事を終えると、リリが小さなブラシを取り出した。
「モカ、おいでー」
モカが素直に身体を伏せる。
リリはその背中へ降り、長くなった冬毛へブラシを通し始めた。
雪山で暮らすヴァイスティーガーの冬毛は、外側の長い毛と、その下に生える柔らかな毛の二重になっている。防寒には優れているが、放っておけば絡まりやすい。
リリがブラシを動かすたび、白い毛がふわりと舞った。
「ここ、いっぱい抜けるー」
モカは目を細め、喉を鳴らしている。
半年も一緒に過ごすうちに、二人の距離は随分と変わった。
幼い頃は、リリが近づくだけで威嚇していた。頭へ乗れば前脚で叩き落とし、尻尾を掴まれれば追い回していたものだ。
今ではリリを頭に乗せたまま走り、こうして毛の手入れまで任せている。
「はい、おわりー!」
リリがブラシを掲げた。
モカが顔を上げる。
身体を捻って振り返り、リリへ鼻先を近づけた。
「モカもありがとーって――」
リリの言葉が止まった。
モカの口が大きく開く。
その頭が丸ごと入ってしまいそうな牙の間へ、リリの上半身が隠れた。
「お、おい!」
初めてその光景を見たトッドが立ち上がる。
次の瞬間、モカの大きな舌が、リリを頭から舐め上げた。
「ひゃああああっ!」
リリが飛び上がる。
髪も服も唾液でべっとりと濡れ、羽まで重そうに垂れていた。
「モカ! リリは毛づくろいいらないのー!」
モカは不思議そうに首を傾げた。
ブラッシングをしてもらったから、自分も返しただけなのだろう。
「べちょべちょー! やだー!」
逃げるリリを、モカがゆっくり追いかける。
その口元で、長い舌がもう一度動いた。
「こっち来ないでー!」
悲鳴を上げながら飛び回るリリと、それを追う白い巨体。
傍から見れば、妖精が巨大な魔獣に食べられかけているようにしか見えない。
だが、誰も止めなかった。
いつものことだからだ。
雪の中を逃げ回る二人を眺めながら、私は温かいお茶を口へ運んだ。
第六十話・了
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