第五十七話 少しだけ人間らしい夜
翌朝、地面を揺らす無数の足音で目を覚ました。
昨夜のうちに修理を終えた馬車は、街道から少し外れた広場に停めたままだ。御者や子供たちには馬車の陰から出ないよう伝え、私たちは街道沿いに並んで北を見ていた。
土煙の向こうから、魔国軍の本隊が姿を現す。
先頭を進む騎兵に続き、整然と隊列を組んだ兵士たちが私たちの前を通り過ぎていく。掲げられた軍旗が朝の風を孕み、規則正しい足音が絶え間なく地面を叩いていた。
子供たちは馬車の隙間から、不安そうにその光景を見つめている。
無理もない。
彼らにとって、武装した大人の集団など恐怖の対象でしかないだろう。あれが王国軍だろうと魔国軍だろうと、見分けがつくとも思えない。
兵士たちはこちらを見ても、隊列を乱さなかった。
昨夜の情報は、きちんと本隊まで届いたらしい。
このまま北へ進むのなら、王国軍が私たちを追撃してくる可能性は大きく下がる。北方の商業都市がまだ持ち堪えているなら、魔国軍はそちらの救援を優先するだろう。
王国軍も、背後から接近する軍勢を無視して私たちを追い回す余裕はない。
「これでもう安心だな」
隣に立つバルガスが、遠ざかっていく軍列を見ながら息を吐いた。
「安心するには早いわ」
「そう言うと思ったぜ」
「敵が追ってこないと決まったわけじゃないもの。それに、魔国軍がいつまでも私たちに好意的とは限らないでしょう?」
「飴までくれたのにか?」
「あれは子供たちにでしょう」
私たちの命まで飴一袋で保証された覚えはない。
少なくとも、ダーツという男は話の通じる相手だった。しかし、彼一人の人柄と魔国軍全体の方針を同じものとして考えるほど、私は素直ではない。
街道を埋めていた最後尾の兵士たちが通り過ぎるまで待ち、私たちも出発の支度を始めた。
修理した車輪を、トッドがもう一度念入りに確認している。
「どう?」
「走れはする。ただ、あまり速度は出したくないですね。今のところ歪みはないですけど、街に着くまでは何度か止めて見た方がいい」
「それで構わないわ。ここからは急ぐより、確実に進みましょう」
私たちは馬車を街道へ戻し、南東へ向けて移動を再開した。
魔国軍とすれ違ったからといって、すぐに警戒を解くことはしない。トッドには馬車の側についてもらい、私はバルガスと交代しながら後方を確認した。
リリにも上空から周囲を見てもらっている。
もっとも、当の本人はしばらく飛ぶとモカの頭へ降り、当然のように腹這いになっていた。
モカは不満そうに耳を動かしているが、振り落とそうとはしない。
昨夜なら、すぐに前脚で叩き落としていただろう。少しは慣れたのかもしれない。
昼を過ぎても追手の姿はなく、街道の周囲に人の気配もなかった。
十分に距離を稼いだところで、森に近い開けた場所を見つけた。周辺を確認してから馬車を停め、今日はここで休むことにする。
「火を使ってもいいでしょうか?」
フィナに尋ねられ、私は空を見上げた。
まだ日は高い。煙が上がれば遠くからでも見えるが、昨日までとは状況が違う。北には魔国軍の本隊がいて、周囲に敵の斥候が潜んでいる気配もない。
「ええ。ただし、あまり大きくしないで」
「分かりました」
返事をしたフィナの表情が、わずかに明るくなる。
子供たちに、ようやく温かい物を食べさせられる。
昨日の食事は乾燥したパンと水、それに少量の干し肉だけだった。腹を満たすことはできても、硬いパンを黙って齧る子供たちの姿は、見ていて気分のいいものではなかった。
「トッド、狩りはできそう?」
「無理だね。車輪をもう一度ばらして見ておきたいんだ。この先で外れたら、今度こそどうにもならないしね」
「そう。なら、バルガスに――」
「私が行きます」
フィナが申し出た。
「狩りもできるの?」
「弓で仕留めるのは得意ではありませんけど、森で食べ物を探す方法なら知っています。小さな獲物でよければ、罠を使えますから」
さすがはドルイド、と考えていいのだろうか。
森の知識があるとは聞いていたが、それは薬草や精霊に限った話ではないらしい。
「一人では行かせられないわ。バルガス、ついていって」
「任せろ」
「おう、任された!」
なぜかリリまで元気よく手を挙げた。
「あなたは上から周囲を見ていて。獲物を驚かせないようにね」
「わかったー!」
モカも二人についていこうとしたが、これは私が捕まえた。
まだ小さな身体を脇から抱き上げると、四本の脚を懸命に動かしている。
モカもいく! モカも!とでも言ってる様に見える。
「あなたが行ったら、獲物が全部逃げるでしょう?」
「んなぁー!」
抗議されても駄目なものは駄目だ。
それからしばらくして、フィナたちは三羽の兎を持って戻ってきた。
獣道にくくり罠を仕掛け、バルガスとリリが遠巻きに追い込んだらしい。狩りと呼ぶには随分と短い時間だったが、フィナに言わせれば、兎の通り道さえ見つけられれば難しくないそうだ。
吊り下げられた兎を見た途端、私の腕の中にいたモカが暴れ始めた。
「んなっ、なあっ!」
「駄目よ」
「シャーッ!」
吊り下げられた兎を見た途端、私の腕の中にいたモカが暴れ始めた。
「んなっ、なあっ!」
「駄目よ」
「シャーッ!」
珍しく私にまで威嚇してきたので、ほんの少しだけ殺気を混ぜて睨み返す。
「あ゛?」
モカは一瞬で耳を伏せ、尻尾を腹へ巻きつけるように縮こまった。そのまま私の腕の中で、カタカタと震え始める。
昔、動物のしつけには濁音を含んだ短い声が効くと聞いたことがある。試してみたが、効果はあるようだ。
少し離れた場所で、子供たちまで揃って硬直しているが、……効果はある様だ。
それでも兎への未練は捨てきれないらしく、震えながらも必死にそちらへ前脚を伸ばしている。
仕方なく地面へ下ろすと、今度は兎を持ったバルガスの足元をぐるぐると回り始めた。自分も狩りに参加したつもりなのか、時折胸を張ってこちらを見てくるのが腹立たしい。
「お前、なんにもしてねえだろ」
「シャーッ!」
「お? なんだ、俺になら勝てそうってか?」
兎はオルドが手早く処理した。
三羽だけでは人数分に足りないため、保存していた豆や根菜を加えて煮込むらしい。肉を細かく切り分け、大きな鍋へ入れていく。
骨も無駄にはしない。
じっくり煮出した汁に塩と乾燥させた香草を加えると、辺りに温かな匂いが広がっていった。
鍋の側では、モカが尻尾を立てたまま行ったり来たりしている。その頭上をリリが飛び回り、二人揃って何度も鍋を覗こうとしては、オルドに追い払われていた。
「まだだ。座って待ってろ」
「もうできたー?」
「今聞いたばかりだろうが」
「モカ、おなかすいたってー」
「お前も同じ顔をしてるぞ」
そんなやり取りを、子供たちが遠巻きに見ている。
やがて一人が小さく笑い、それにつられるように別の子も笑った。
昨日までほとんど表情を見せなかった子供たちだ。
笑えるのなら、それに越したことはない。
出来上がった煮込みは、まず子供たちへ配られた。
木の椀を両手で抱え、立ち上る湯気に目を丸くしている。すぐに口をつけようとした小さな子を、年長の子が慌てて止めていた。
「熱いから、ふうふうして」
そう言いながら、自分の椀を脇へ置き、小さな子の分を冷ましてやっている。
十歳になるかどうかという年齢だ。
本来なら、誰かに世話を焼かれる側だろう。それでもその子は、自分より幼い子供たちの面倒を懸命に見ていた。
「ほら、お前も食え。そっちは俺がやる」
バルガスが隣へ腰を下ろし、代わりに椀を受け取った。でかい図体で変な優しさがある男だ。
年長の子は戸惑いながらも、自分の煮込みを口へ運ぶ。
温かい湯気の向こうで、その目が少しだけ細くなった。
夜になると、森の気温は急に下がった。
焚き火を絶やさないよう交代で薪を加え、子供たちには馬車の中で休ませた。しかし、日付が変わる頃になると、一人、また一人と起き出してきた。
声を上げて泣く子はいない。
唇を噛み、涙をこぼしながら、それでも泣くまいと我慢している。年長の子供たちは、小さな子の手を引き、背中を撫でながら焚き火の近くへ連れてきた。
親を亡くし、見知らぬ場所を転々とさせられ、信用できるかどうかも分からない大人についていかなければ生きていけない。
昼間に温かい物を食べたくらいで、その不安が消えるはずもない。
むしろ身体の緊張が緩んだからこそ、押し込めていたものが溢れてきたのかもしれない。
フィナが背負っていた荷物を開き、中から小さなリュートを取り出した。
「少しくらいなら、いいでしょうか?」
こんな野ざらしの場所で、夜中に音を出すべきではない。
そう考えたが、周囲に敵の気配はなく、北には魔国軍が展開している。明日からも馬車での移動が続くことを思えば、子供たちをこのまま眠らせる方が酷だろう。
私は黙って頷いた。
フィナの顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「皆さん、こちらへ来ませんか?」
子供たちを焚き火の周りへ呼び寄せ、フィナは倒木へ腰を下ろした。
細い指が弦を爪弾く。
澄んだ音が一つ、夜の森へ静かに溶けていった。
続いて流れ始めた旋律は、美しく、どこか懐かしいものだった。
初めて聞く曲のはずなのに、知っている気がする。
炎が揺れる。
薪が爆ぜる。
繰り返される短い旋律の中に、遠い昔、どこかで聞いたものとよく似たフレーズがあった。
あれは、いつだっただろう。
国境近くの名もない丘だったか。
それとも、砂混じりの風が吹き抜ける異国の荒野だったか。
誰かを埋めた夜に、仲間の一人が歌い始めた。
一人が加わり、また一人が加わった。
翌朝には次の戦場へ向かわなければならなかったから、長く悲しんでいる時間などなかった。それでも、その夜だけは皆が火を囲み、二度と帰らない者たちのために歌った。
気がつくと、私の口から言葉がこぼれていた。
囁くよりも大きく、歌うよりも小さな声。
人に聞かせるためのものではない。
ただ、フィナの奏でる旋律に引かれ、遠い記憶が勝手に声になって流れ出していく。
どこへ行ったのかと、探さなくていい。
帰れないのだと、嘆かなくていい。
眠る場所が遠く離れていても、共に過ごした日々まで失われることはない。
そんな意味の、古い鎮魂歌だった。
フィナが私の声に気づいた。
一瞬だけこちらを見たが、何も言わずに旋律を合わせてくる。
焚き火を囲んでいた子供たちが顔を上げた。
私は彼らを見なかった。
見てしまえば、歌っていることを意識して声が止まってしまいそうだった。
炎だけを眺めながら、遠い昔に置いてきた者たちのために歌い続ける。
いつの間にか、子供たちの泣き声は聞こえなくなっていた。
小さな子供たちは寄り添い合い、年長の子供の肩へ頭を預けている。その年長の子も、誰かを守る必要がなくなったように目を閉じていた。
曲が終わっても、誰も言葉を発しなかった。
フィナが最後の弦を静かに鳴らす。
余韻が夜の森へ消えてから、私は立ち上がった。
「馬車へ運びましょう。身体を冷やすわ」
バルガスとオルドが眠った子供たちを抱き上げる。
私も一人を腕に抱いた。
小さな身体は驚くほど軽く、頬には乾きかけた涙の跡が残っていた。それでも、その寝顔は昨夜より穏やかに見えた。
翌朝。
出発の支度を終え、馬へ向かおうとしたところで、服の裾を引かれた。
振り返ると、二、三歳ほどの小さな子が立っている。
固く握り締めていた片手を、ゆっくりと私へ差し出した。
小さな掌の上にあったのは、先日ダーツからもらった飴だった。
包み紙は皺だらけになり、溶けた砂糖で指までべたべたになっている。
「……くれるの?」
その子は何も言わず、こくりと頷いた。
自分で食べればいいと返すのは簡単だ。
けれど、この子が差し出した気持ちまで拒む理由はない。
私はその場にしゃがみ込み、べたついた飴を受け取った。
「ありがとう。いただくわ」
包みを開き、そのまま口へ入れる。
少し溶けて形の崩れた飴は、驚くほど甘かった。
子供は私が食べたのを見届けると、ようやく安心したように笑う。
私はその頭を一度だけ撫で、立ち上がった。
「行きましょう」
馬車が動き始める。
私も馬へ乗り、子供たちを乗せた馬車の隣についた。
口の中に残った甘さは、元来た街へ向かう間も、しばらく消えなかった。
第五十七話・了
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