第四十九話 リリとモカ
ぺろ。
「…………」
頬に、ざらりとした感触がした。
ぺろ。
「……何?」
薄く目を開ける。
すぐ目の前に、茶色い毛玉がいた。
「みぃ」
「モカ……?」
私の胸元へ前脚を乗せ、また頬を舐めてくる。
「ちょっと、くすぐったいって」
手を伸ばして抱き上げる。
「…………あら」
そこで気づいた。
昨日まで固く閉じられていたまぶたが開いている。
くりっとした二つの目が、私の顔をじっと見つめていた。
「目、開いたのね」
「みぃ!」
昨日よりも声に張りがある気がする。
胸元へ抱き寄せて頭を撫でると、小さな耳で薄いスカイブルーの石が揺れた。
「昨日開けてもらったところ、痛くない?」
「みぃ」
「そう」
毛布の上へ下ろしてみる。
昨日までは鼻をひくひくさせながら、這うように私の匂いを追っていた。
それが今日は、まだ覚束ないながらもしっかり四本の脚を使って歩いている。
ちょこちょこと毛布の上を歩き、私の膝を乗り越えようとして――転がった。
「みっ」
「あらあら」
起こしてやろうと手を伸ばす。
だが、その前に自分で身体を起こした。
もう一度。
今度は前脚を私の膝へ掛け、よじ登ろうとする。
「急に元気になったわね」
「みぃ!」
昨日まで見えていなかった世界が、よほど面白いらしい。
きょろきょろと辺りを見回しては、気になるものへ近づこうとする。
「モカー!」
テントの入口から声がした。
リリが勢いよく飛び込んでくる。
「起きたー?」
「みぃ」
「あーっ!」
リリが空中で止まった。
「おめめ開いてるー!」
「今朝からみたい」
「見せて見せてー!」
リリが一直線に飛んでくる。
モカが動きを止めた。
「…………」
くりっとした目で、近づいてくるリリを見ている。
そういえば――。
声や匂いは知っていても、こいつがリリを見るのは初めてなのね。
「モカー!」
リリが目の前まで飛んできた。
小さな耳がぺたりと伏せられる。
「シャーッ!」
「なんでー!?」
リリが飛び退いた。
「昨日まであなたの姿は見えてなかったもの」
「リリだよー!」
また近づく。
「シャーッ!」
「リリだってばー!」
「シャーッ!」
「モカー!」
「シャーッ!」
それでもリリは挫けない。
右から回り込む。
「モカー!」
「シャーッ!」
左から。
「リリだよー!」
「シャーッ!」
上から。
「モカモカー!」
「シャーッ!」
「あなた、少し放っておいてあげたら?」
「やだー! モカと遊ぶー!」
「みぃぃ……」
モカが私の膝へよじ登ってくる。
そのまま胸元まで這い上がり、私の腕の間へ身体を押し込む。
「モカー!」
「シャーッ!」
「元気ねぇ……」
どっちも、まあ、うるさい。
◆
朝食を済ませた後、私たちは冒険者ギルドへ向かった。
受付へ行き、鞄から一通の封書を取り出した。
「お願いがあるんだけど」
「はい。どのようなご用件でしょうか?」
「これをドランザート議長に届けてほしいの」
封書を差し出す。
受付嬢が両手で受け取った。
「議長宛て……ですか?」
「ええ。紹介状よ」
「差出人を確認してもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
受付嬢が封書を裏返す。
封蝋を確認したところで、その手が止まった。
「……ステラ議長から?」
「ええ」
もう一度、封蝋を見る。
「少々お待ちください」
「お願い」
受付嬢は立ち上がると、封書を持って奥へ消えていった。
「また待つのー?」
私の頭の上でリリが不満そうな声を上げる。
「そうみたいね」
「じゃあモカと遊ぶー!」
「やめておきなさい」
「モカー!」
止める間もなく飛んでいった。
私の足元にいたモカがリリを見る。
「シャーッ!」
「モカー!」
「シャーッ!」
「仲良くしよー!」
「シャーッ!」
朝からずっとこれだ。
「随分嫌われたな」
バルガスが笑う。
「嫌われてないもん!」
「どう見ても嫌がられてんだろ」
「まだリリだって分かってないだけー!」
「声は知ってるはずだぞ」
「…………」
リリが止まった。
「モカー?」
「シャーッ!」
「やっぱり分かってないー!」
「都合よく解釈したわね」
モカが私のブーツの陰へ逃げ込んでくる。
リリはまだ諦めていない。
……そのうち慣れるでしょう。
たぶん。
しばらくして、受付嬢が戻ってきた。
「お待たせしました」
「どうだった?」
「紹介状は、こちらから責任を持ってドランザート議長へお届けします。それと、議長側へ確認を取らせていただきました」
早いわね。
まだ紹介状そのものは届いていないはずだ。
差出人がステラだというだけで話を通したのだろう。
「本日、日没後でしたらお時間を取れるとのことです」
「今晩ね」
「はい。ただ――」
受付嬢が僅かに声を落とした。
「議長館の正面入口からは入らないように、とのことです」
「…………」
後ろにいたガイルたちの空気が僅かに変わった。
「どこへ行けばいいの?」
「東側に通用門があります。そちらへお越しください」
受付嬢が小さな札を取り出した。
「こちらを門衛にお見せください。話は通しておくとのことです」
受け取る。
何の変哲もない小さな木札に見える。
「分かったわ」
「人数は皆様で?」
「八人よ」
「承知しました。そのようにお伝えします」
受付嬢が頭を下げた。
用件は済んだ。
◆
ギルドを出て少し歩いたところで、ガイルが振り返った。
「しかし、わざわざ正面を避けて通用門から来いってのは、ちょっと気になるな。ヴィヴィはどう思う?」
「嫌われてるんじゃない?」
「まだ顔も合わせてないのに、それはさすがに傷つくなぁ」
「冗談よ」
手の中の木札を見る。
「私たちが議長に会うところを、見られたくないんでしょうね」
「俺もそう思う。ステラ議長から、その辺について何か聞いてるか?」
「詳しくは聞いてないわ」
「そっか。まあ、今ここで考えても仕方ないか。今晩直接聞けば分かるだろうしな」
「そうね」
ラディアで何かが起きている。
それは聞いている。
だが、誰が何をしているのかまでは知らされていない。
だからこそ、私たちが来た。
バルガスが大きく伸びをする。
「んじゃ、それまでどうする? 俺、酒と肉が食いてぇな」
「酒は禁止だ」
ガイルが即座に言った。
「えぇ……」
「今晩は議長との面会だぞ。酒臭い息で顔を出すつもりか?」
「一杯くらいいいだろ」
「駄目だ。俺たちは遊びに来たわけじゃないんだから、今日は我慢してくれ」
「ちぇっ。じゃあ肉だけかよ……」
「肉?」
思わずバルガスを見る。
「……お前、肉好きだよなぁ?」
「肉って何があるの?」
「ほら、食いついてんじゃねぇか」
「食いついてないわよ」
「ヴィヴィ、お肉好きー!」
頭の上からリリまで余計なことを言う。
「嫌いじゃないだけよ」
「だったら決まりだな。せっかくラディアまで来たんだ。この辺でしか食えない肉でも探そうぜ」
「そうね」
「決めるの早ぇな」
ガイルが苦笑する。
「まあ、肉なら止める理由もないか。せっかくだし、この街のものを食ってみるのも悪くない。ただし、酒は全員なしだからな」
「酒と一緒の方がうめぇのに」
「当たり前だろ。今晩は全員で議長に会うんだから」
「ちぇっ」
「肉ー!」
「みぃ!」
腕の中のモカまで声を上げた。
「モカは駄目よ」
「みぃ?」
「まだ消化器官がちゃんと育ってないでしょう。あなたは乳」
「みぃ……」
「そんな声出しても駄目」
「モカ、かわいそー」
「お腹を壊す方が可哀想でしょう」
「そっかー」
「みぃ……」
随分と残念そうね。
少し離れたところから、バルガスが手を振った。
「おーい。肉食うなら店探そうぜ」
「今行くわ」
「ほら、やっぱり一番乗り気じゃねぇか」
「いいから早く探して」
「はいはい」
ガイルが苦笑しながら後に続く。
私もモカを抱き直して歩き出した。
「モカー!」
リリが頭の上から身を乗り出す。
「シャーッ!」
「まだ駄目ー!」
……そっちは今日中にどうにかなるのかしら。
手元には、議長館の東側通用門を通るための小さな木札。
正面から来るな、か。
どうやらステラから聞いていた以上に、面倒なことになっているらしい。
第四十九話・了
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