第四十四話 閑話――見えない手
ヴィヴィさんたちがトラペジアを発ってから、数日が経った。
いつもと同じ時間に冒険者ギルドへ出勤して、いつもと同じ受付に座る。朝になれば依頼を受けに来た冒険者たちが掲示板の前に集まり、報酬が安いだの割に合わないだのと好き勝手なことを言っている。
昼を過ぎれば酒場から料理の匂いが漂い始め、夕方になれば依頼を終えた冒険者たちが戻ってくる。無事に帰ってきた人を迎え、怪我をしていれば治療の手配をして、依頼の達成報告を受け取る。
何も変わっていない。
ヴィヴィさんがここに来る前から、ずっと繰り返してきた冒険者ギルドの日常だ。
それなのに最近、酒場がどこか静かになったような気がしていた。
「……気のせいかな」
受付から酒場を眺める。
いつもの席では冒険者たちが酒を飲み、今日の獲物について大袈裟に自慢している人がいれば、それを聞いて野次を飛ばしている人もいる。奥のテーブルでは報酬の分け前を巡って揉めているし、酔っ払った誰かの大きな笑い声も聞こえてくる。
十分すぎるくらい騒がしい。
それなのに、どこか元気がないように感じてしまう。
ヴィヴィさんがいないから、そう見えるんだろうか。
それとも、私の気持ちが落ち込んでいるから、いつもの酒場まで寂しく見えてしまうだけなんだろうか。
「ヴィヴィさん……」
小さく名前を呼んでみる。
もちろん、返事なんて返ってこなかった。
分かっている。
ヴィヴィさんは遊びに行ったわけじゃない。ギルドから正式に任された仕事で、遊撃部隊の一員として旅立ったのだ。
ラディアへ向かい、その先にはミエリッキがある。
いつ帰ってくるのかも分からない。
頭ではちゃんと理解していた。
見送りだってした。
笑って「行ってらっしゃいませ」と言えた。
なのに――。
寂しい。
思っていたより、ずっと寂しい。
ヴィヴィさんがこの街にいるというだけで、私はずいぶん安心していたらしい。
◆
少し前まで、私は毎晩のようにヴィヴィさんを待っていた。
仕事が終わってもすぐには帰らず、彼女の特訓が終わるのを待っていた。徐々に強くなっていく彼女を感じて、それが少し寂しかった。
それでも、疲れて動けないヴィヴィさんの背中に上着を掛けてあげることもできたし、息が整うまで隣で待つことだってできた。
今になって思えば、それだけでも十分幸せだったのだと思う。
ヴィヴィさんは、すぐ近くにいた。
朝になれば鍛錬をして、依頼を受ける時には受付に顔を出して、夕方になれば地下へ潜っていく。どれだけ無茶をしても、どれだけ強くなっても、ヴィヴィさんの日常は私の手が届くところにあった。
でも今は、その手が届かない。
今日は何を食べただろう。
怪我はしていないだろうか。
ちゃんと眠れているだろうか。
また無茶なことをして、周りの人を困らせてはいないだろうか。
考え始めると、次から次へと心配事が浮かんでくるのに、確かめる方法がない。
シフォンさんには報告書をお願いしてある。
ヴィヴィさんには機密事項ですと誤魔化したけれど、私にとっては大切な報告書だ。
でも、それが届くのはまだ先になる。
それまで私は、何をしていればいいんだろう。
◆
その日の仕事を終えても、なかなか帰る気にはなれなかった。
受付の書類を片付けて、いつものように椅子から立ち上がる。
そのまま何となく地下へ続く方へ目を向けて――自分でもおかしくなった。
待っていたって、ヴィヴィさんは出てこない。
「……馬鹿みたい」
そう呟いた途端、急に目の奥が熱くなった。
慌てて俯く。
仕事中は平気だったのに。
受付に座っている間は、いつも通りにできていたはずなのに。
「まだ帰らねぇのか?」
突然声を掛けられ、慌てて顔を上げた。
「マスター……」
ダンさんが立っていた。
「もう業務は終わってるだろ」
「……もう少ししたら帰ります」
「そうか」
それ以上は何も聞かず、マスターは酒場の奥へ戻っていった。
助かった。
今、優しいことを言われたら泣いてしまいそうだった。
ところが、しばらくすると再び足音が近づいてきた。
「ほら」
コトン、と小さな杯が目の前に置かれる。
「……なんですか、これ」
「見りゃ分かるだろ。酒だ」
「それは分かります」
「奢りだ。飲め」
思わず、杯とマスターの顔を交互に見た。
「……マスターが?」
「なんだよ」
「いえ。珍しいこともあるんだなって」
「いらねぇなら返せ」
「飲みます!」
慌てて杯を両手で掴む。
マスターが呆れたようにフンっと鼻を鳴らした。
それがおかしくて、少しだけ笑えた。
一口飲む。
思っていたより強いお酒だった。喉から胸まで一気に熱くなり、二口目を飲んだ頃には鼻の奥までつんとしてきた。
「……寂しいです」
「ああ」
「すごく、寂しいです」
「ああ」
マスターは、それしか言わなかった。
「ちゃんとご飯、食べてるかな……」
「あいつなら食ってるだろ」
「怪我してないかな」
「してるかもしれんな」
「そこは大丈夫って言ってくださいよぉ……」
「俺に分かるか」
「ひどいです……」
もう一口飲んだところで、視界が滲んだ。
お酒のせいにしようと思ったけれど、頬を伝ったものが一滴、手の甲へ落ちてしまった。
「……ヴィヴィさん、帰ってきますよね?」
「帰ってくるだろ」
「本当に?」
「帰ってくる場所があるんだからな」
その言葉で、駄目になった。
「うぅ……ヴィヴィさぁん……」
「お、おい」
「寂しいですぅ……」
「分かった、分かったから。ほら、これ使え」
差し出された布を受け取って顔を押さえる。
一度溢れてしまった涙は、なかなか止まってくれなかった。
ヴィヴィさんに会いたい。
今すぐ帰ってきてほしい。
こんなに心配しているのに、遠くへ行ってしまったヴィヴィさんに、私がしてあげられることは何もない。
「……私、何ができるんでしょう」
「あ?」
「シフォンさんには、報告書をお願いしました。ヴィヴィさんが帰ってくる場所を守るのだって、大事だと思います。帰ってきた時、いつも通り迎えてあげる人がいることも……」
涙を拭っても、次から次へと溢れてくる。
「でも、本当にそれだけなのかなって。私は、ここで待ってるだけなのかなって思ったら……」
自分でも何を言っているのか、よく分からなくなっていた。
ただ、悔しかった。
ヴィヴィさんが遠くへ行ってしまったことじゃない。
遠くへ行ってしまっただけで、何もできなくなったと思っている自分が、悔しかった。
「私……傍に居なきゃ、何もできない女じゃない……」
声にすると、また涙が出た。
マスターはすぐには何も言わなかった。
私が少し落ち着くのを待ってから、自分の杯をカウンターへ置いた。
「ミラ」
「……はい」
「お前はギルドの職員だ。誰か一人のためだけの存在じゃない」
思わず顔を上げた。
「別にヴィヴィのことを心配するなって言ってるんじゃねぇぞ。お前があいつを大事にしてることくらい、俺だって知ってる」
マスターは酒場へ目を向けた。
「それにな、お前が他の冒険者にも十分手を尽くしてるのは分かってる。新人が困ってりゃ面倒を見て、怪我して帰ってきた奴がいりゃ治療の手配をして、帰りが遅けりゃ心配して待ってる。ヴィヴィが来る前から、お前はそうやって仕事してきただろ」
「それは……仕事ですから」
「ああ。お前の仕事だ。だから、それを大したことじゃねぇみたいに言うな」
少し強い口調だった。
怒られたわけでもないのに、私は小さく背筋を伸ばす。
「何ができるか? なんて考えたって、遠くにいる奴にしてやれることなんざ、ほとんどねぇよ。強い権力や力がありゃ、それも可能だろうけどな。でもな、何の力もねぇってのも違うんだよ」
マスターは酒場を眺めたまま続けた。
「お前も、冒険者一人一人も、個々に見りゃ小さな力かもしれねぇ。国を動かせるわけでもなきゃ、何百人も救えるような力があるわけでもない。俺だって同じだ」
酒場には、まだ何人もの冒険者が残っていた。
一日の仕事を終えて酒を飲んでいる人。腕に包帯を巻いたまま仲間と笑っている人。明日の依頼について話し合っている人。
毎日見ている光景だった。
「けどな、人間ってのは一人で生きてるわけじゃねぇ。お前が助けた奴が、今度は別の誰かを助ける。その誰かが、また別の奴に手を伸ばすことだってある」
マスターが私を見る。
「お前の手助けが直接ヴィヴィを助けなくても、お前が助けた誰かがヴィヴィを助けることもあるだろう」
「……私が助けた人が?」
「ああ。その逆だってある。ヴィヴィがどっかで助けた奴が、巡り巡ってここにいる誰かを助けるかもしれねぇ。そんなもん、本人には分からねぇよ」
マスターは自分の手を見ながら、少しだけ笑った。
「お前の助けは『見えない手』なんだよ」
「……見えない、手」
「自分じゃ、どこまで届いたかなんて見えねぇ。誰に繋がって、どこまで伸びていったのかも分からねぇ。だから、自分には何もできてねぇように思うこともある」
そして、マスターは酒場にいる人たちをゆっくり見渡した。
「でもな。お前達はもう既に、その見えない手であいつを助けてるんだ」
「……もう?」
「ああ」
それ以上、マスターは何も言わなかった。
私は自分の手を見つめた。
ヴィヴィさんの傷を拭いた手。
包帯を巻いた手。
水を渡した手。
それだけじゃない。
毎日、依頼書を冒険者に渡している。帰ってきた人から報告を受け取り、怪我をしていれば治療の手配をする。駆け出しの子が無茶な依頼を受けようとすれば止めるし、困っている人がいれば話を聞く。
私にとっては、いつもの仕事だった。
その一つ一つが、この手から誰かへ渡っていく。
その先で何が起きているのか、私には見えない。
それでも、消えてしまうわけじゃない。
ヴィヴィさんが遠くへ行ってしまった寂しさは、まだ胸の中にある。
今だって会いたい。
声を聞きたい。
帰ってきたら、きっと泣きながら抱きついてしまうと思う。
でも、もう何もできないとは思わなかった。
私は、傍にいなきゃ何もできない女じゃない。
直接この手が届かないなら、届く誰かへ手を伸ばせばいい。
それがどこへ繋がっていくのかなんて、きっと誰にも分からない。
でも――。
いつか、その先でヴィヴィさんに届くのかもしれない。
「……ごちそうさまでした」
空になった杯を置いて、私は席を立った。
「おう。少しは元気出たか?」
「はい」
涙を拭って、マスターを見る。
「説教親父にお酒を飲まされたと、クリスさんに報告しておきますね」
「おい」
マスターの顔が固まった。
少し間を置いて、酒場に残っていた人たちから笑い声が漏れる。
「なんでそうなるんだよ。せっかく俺がいい話をしてやったってのに……ったく、人が珍しく酒まで奢ってやりゃ、説教親父だのなんだの……」
ぶつぶつと文句を言い始めたマスターに背を向け、私は数歩歩いた。
そこで、足を止める。
「マスター」
「あん?」
振り返った。
「ありがとう、ございました。」
一瞬だけ、マスターが目を丸くする。
私はその返事を待たず、今度こそ歩き出した。
明日もまた、いつもの受付に立とう。
ヴィヴィさんが帰ってくる場所を守るためだけじゃない。
ここから誰かに、私の手を伸ばすために。
第四十四話・了
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