第十八話 ただのヴィヴィ
その女が入ってきた時、ギルドの空気が、少しだけ変わった。
へそを出した、軽装の女だった。腰の括れも、白い腹も、惜しげもなくさらしている。旅の女冒険者、とでも言いたげな格好だ。
だが――違う。
俺には、分かる。あの女の後ろに続く、数人の男、おそらく騎士だ。腰の剣には、紋章はない。わざわざ削ったんだろう。装備は上等なのに、出所を消してある。そして、その立ち方。足の運び。だらしなく見せかけて、隙がない。
冒険者じゃない。訓練された兵士。それも、相当の練度の。
……ガイルの言っていた「探ってる女」ってのは、こいつか。
女は私に気が付くと、まっすぐ俺の方へ歩いてくる。
顔を確かめようと、覗き込む様な仕草が癇に障る。
◆
――ぞわり、と。
腹の底から、何かが突き上げてきた。
脳裏に一瞬、この女の顔が浮かぶ。にやり、と嗤った、あの顔が。
……これは。
半年、忘れていた感覚だった。
激しい、憎悪。
気づけば腰の短剣に、手が伸びかけていた。反射的に考えるより先に、この女を殺そうとしている。あのニヤけ面を、二度と笑えなくしてやろうと。
――待て。
俺はその手を、辛うじて止めた。
落ち着け。ここでこいつ一匹殺したところで、気が済むか? ……済むわけがない。こんなもの、雑魚でしかない。殺るなら、全部まとめてだ。こいつも、あの国も、何もかも。一匹だけ先に片付けて、残りに警戒されたんじゃ割に合わない。
……そうだ。今じゃない。
柄にかけた指を、そっと戻す。それでも器の疼きは、まだ引かない。手が微かに震えていた。今度は、武者震いじゃない。憎悪で、だ。
抑えろ。これまで、そうしてきたようにな。
◆
女が、俺の前で足を止めた。
値踏みするように、じろじろと俺を眺める。そして、口を開いた。
「……ねえ、あなた」
わざとらしく首を傾げて、女が言う。
「あなた、ヴィオレッタ……じゃないの?」
周りの何人かが、こちらを見た。
鎌をかけてきた、ってわけだ。核心から、直に。身分を隠してへそまで出しておいて、ずいぶんと大胆に踏み込んでくる。よほど、確かめたいと見える。
俺は、表情を変えずに答えた。
「私は、ヴィヴィよ。ただの、ヴィヴィ」
嘘じゃない。俺は、ヴィヴィだ。ヴィオレッタなんて令嬢は、滝壺に身を投げて死んだ。……腹の底で煮えているものは、おくびにも出さない。
「でも、その顔……。わたくし、知っているのよ。あなた、絶対に――」
「そんな事より」
俺は、女の言葉を途中で遮った。
そして、その腹へ視線を落とす。惜しげもなくさらされた、白い腹へ。
「あなた。そのお腹、少しは引き締めた方がいいんじゃないの?」
女の顔が、ぴきりと固まる。
「たるんだお肉が、スカートに乗ってるわよ」
――ぶっ。
横で、ガイルが吹き出した。
堪えきれなかったらしい。口元を押さえて、肩を震わせている。それが伝染して、近くの冒険者たちも、次々と下を向いた。誰かの「ぷっ」という声。押し殺した笑いが、あちこちで漏れる。
女の顔が、みるみる赤くなっていく。
……効いたらしい。
◆
「――貴様ッ!」
女の後ろで、男の一人が声を荒げた。
主を嗤われて、我慢ならなかったんだろう。剣の柄に手をかける。
その瞬間だった。
ガタッ、ガタタッ――
笑っていた冒険者たちが、一斉に立ち上がった。
椅子を蹴る音。剣を引き寄せる音。さっきまで肩を震わせて笑いを堪えていた連中が、今は揃って鋭い目を男たちへ向けている。
彼女の護衛であろう、数名の騎士。対して、ギルドを埋める数十人の冒険者。
空気が、笑いから殺気へ、一変した。
……へえ。
俺は内心で、少しだけ驚いていた。俺は、何もしていない。ただ、女の腹を貶しただけだ。なのにこの数が、勝手に立ち上がってくれた。
……群れるのは、性に合わないんだがな。いつの間にか、妙なものを背負っていたらしい。自然と口元が緩んだ。
◆
剣に手をかけた男が、周りを見回して動きを止める。
多勢に無勢だと、ようやく気づいたらしい。
そこへ――受付から、ミラが飛び出してきた。
張り詰めた男たちの、その正面へ。受付嬢が一人、毅然として立ちはだかる。
「――冒険者ギルド内での争い事は、ご法度ですよ」
……ミラの奴。
俺が普段、ギルドの中でセクハラ野郎を無表情で沈めているのを、棚に上げて言いやがる。周りの冒険者も、「いや、お前んとこの姉御……」という顔をしていた。あの回し蹴りはどこいった、と。
だがミラは、たじろがなかった。まっすぐ、女とその護衛を見据えて言う。
「あなたが、どなたであれ」
あえて、名を問わない。相手が身分を隠しているのを、承知の上で。
「ここは、七都市同盟です。中立都市の中で、事を起こすおつもりですか? ……国際問題に、したくなければ」
ミラは、にっこりと笑った。
「どうぞ、お下がりください」
――決まった。
殺気だった冒険者の数と、制度の正論。その両方を同時に突きつけられて、男たちが息を呑む。
身分を隠して来た以上、ここで暴れれば、消したはずの正体が露見する。国境の中立都市で、他国の兵が騒ぎを起こした――そんな話になれば、それこそ国際問題になってしまう。
詰んだ、ってわけだ。
◆
「――お嬢様。ここは」
護衛の中で一番腕の立ちそうな男が、静かに言った。
その一言で、周りの空気が揺れる。……「お嬢様」。隠していたはずの化けの皮が、その動揺でほんの少し剥がれた。
女は唇を噛んで、俺を睨みつけた。顔を、真っ赤にして。
「……覚えて、なさいよッ!」
聖女様の威厳も気品も、どこかへ吹き飛んだ、見事な捨て台詞だった。
踵を返してずんずんと出口へ向かう、その背中へ。
俺はのんびりと、声をかけてやった。
「毎日、腹筋しなさいよ」
――どっ、とギルドが沸いた。
今度は、堪えるも何もない。冒険者たちが、腹を抱えて大笑いする。ガイルなんて、テーブルに突っ伏して笑っている。
「ムキーッ!」
女がそんな声を上げて――本当に、そんな声を出したんだ――肩を怒らせながら護衛を引き連れ、ギルドを飛び出していった。
……嵐みたいな女だったな。
◆
扉が、乱暴に閉まる。
笑い声が、まだ収まらない。俺はひとつ息を吐いて、立ち上がったままの冒険者たちを見回した。
「……悪かったわね。私のことで、騒がせて」
軽く、頭を下げる。
半年この街で飯を食って、鍛えて、生きてきた。自分は一匹狼だ、と思っていた。一人で完結するのが、俺のやり方だと。
なのにこいつらは、俺のために立ってくれた。……柄じゃないが、礼くらいは言わせて貰う。
途端に冒険者たちが、口々に笑った。
「気にすんな!」
「あんなの、追い返して当然だろ」
「つーか、最後の腹筋しなさいってのが最高だったぜ!」
……調子のいい連中だ。
まあ、悪い気はしない。
「じゃあ、詫びってわけじゃないけど」
俺は受付のミラに、片手を上げた。
「今日は、私の奢りよ。皆、好きなだけ飲みなさい」
――その日一番の、歓声が上がった。
ミラが、慌ただしく手配に走る。誰かが樽を運んでくる。ついさっきまで殺気立っていたギルドが、あっという間に、酒盛りの熱気に包まれた。
俺は隅の席で、一杯だけ付き合うことにする。気の知れた仲間が、楽しそうに酒を飲んで騒いでいる。
……あの女は、また来るだろう。あのニヤけ面を見た時の、腹の底の疼き。あれはまだ、終わっていない。
だが、それは今日の話じゃない。
今日は――飲む。よく笑ったし、腹も減った。良い肉を、多めに頼むとしよう。
18話・了
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