第十一話 日課と成長
日課が、決まった。
朝、起きたらまず走る。宿を出て、街を巡る。戻って朝飯。それから薬草採取の仕事に出て、夕方は修練場。汗を流して、夕飯を食って、寝る。
単純な繰り返しだ。だが、体を作るのに、単純の繰り返し以上のものはない。派手な近道は、大抵どこかで折れる。地味な積み重ねだけが、裏切らない。
◆
まず、走りの話をしよう。
初日は、半刻も走れなかった。情けない話だが、そこが出発点だった。
だが、これが不思議なくらい、伸びる。
二日目は、昨日より少し先まで行けた。三日目は、そのまた先。日に日に、足が動くようになる。息が上がるまでの時間が、目に見えて延びていく。
からくりは分かっている。この体は、ただ眠っていただけだ。走り方も、体の追い込み方も、俺の頭は知り尽くしている。あとは、体がそれに追いつくのを待つだけ。眠っていたものを叩き起こす段階は、面白いように伸びる。
しかも、この体には健康とタフネスがある。疲れても、翌朝には抜けている。回復が速い分、次の日にはもっと走れる。好循環というやつだ。
半月もすると、街を一周できるようになっていた。
最初はヘロヘロで、道の端に蹲っていた女が、今は軽やかに街を駆け抜ける。
……もっとも、一周できたと言っても、元がひどすぎただけだ。まだ新人の域を出ない。浮かれるほどの話じゃない。
◆
毎朝走っていると、嫌でも顔を覚えられる。
早朝から店を開ける商人。荷を運ぶ馭者。門番。パン屋の親父。同じ時間に同じ道を走っていれば、自然と挨拶を交わすようになる。
「よう、今日も走ってるな」
「お嬢ちゃん、精が出るねぇ」
最初は物珍しげだった目が、段々と馴染みのものになっていく。
顔が売れるのは、都合がいい。街の勝手が掴めるし、舐められにくくなる。情報も入りやすい。全部、後で効いてくる。
……と、打算で説明しておくが。
正直、挨拶が返ってくるのは、悪い気分じゃない。
◆
飯の話もしておく。
この体の作法は、しっかりと叩き込まれている。背筋を伸ばし、音を立てず、一口ずつ。上品に食う事だけは、嫌でも出来る。
ただ、速いらしい。
同じ卓の男が、まだ半分も食っていないのに、俺の皿は空になっている。所作は令嬢、食う速度は行軍中の兵隊。我ながら、噛み合っていない。
それと、料理が来ると顔が緩むそうだ。
「ヴィヴィ、飯の時だけ人相が良くなるな」
同じ宿の常連に、笑われた。普段がどんな顔だと言うんだ。
……まあ、否定はしない。うまいものを前にして、渋い顔をする理由がない。この体になってから、食う事だけは素直に楽しい。人を殺った夜でも、腹は減る。飯はうまい。それで良いと思っている。
問題は、食い終わった後だ。
皿が空になる。
……終わった。
もう、無い。あんなにうまかったのに、もう無い。この喪失感ばかりは、何度味わっても慣れない。自然と、肩が落ちる。
「……おい、そんな辛気くせぇ顔すんな。葬式かと思うだろうが」
向かいの男が呆れた。
「ほれ、干し肉だ。お前さん、走ってばっかで足りてねぇだろ。食え」
……こういう顔をしていると、飯が恵まれる事に、最近気づいた。
いや、狙ってやっている訳じゃないんだが。
顔見知りが増えると、肉の差し入れが回ってくるようになった。干し肉、燻製、串に刺した焼き肉。俺に足りない、動物性タンパク質だ。
ありがたく頂戴する。
そして、差し入れは、その日のうちに消える。
◆
昼は、薬草採取に出る。
最初の何回かは、依頼票の絵と睨めっこだった。どの草がどれか、見分けがつかない。だが、これも数をこなせば覚える。群生している場所も、頭に入ってくる。
地味な仕事だ。金にも、大してならない。
だが、街の外の勝手が掴める。どの道が安全で、どこに水があって、どのあたりから気配が変わるか。地形を体に入れておくのは、後で必ず効いてくる。
それに、日銭にはなる。装備で空になった懐が、少しずつ温まってきた。採取技術も上がって少し高値で買い取って貰えて助かってる。
◆
夕方は、修練場だ。
ギルドの裏手にある、土を固めただけの広場。冒険者が剣を振ったり、組み合ったりしている。
俺は隅で、空手の型をやる。
まず、三戦の型から入る。息を吐きながら、ゆっくり突く。足を締め、腰を落とす。体の中心に、一本の軸を通す型だ。
――初日は、まるで出来なかった。
突きが、途中で止まる。腕が最後まで伸びない。腰が落ちきる前に、膝が笑う。
頭は、正解を完全に覚えている。この突きが、どこで加速して、どこで止まるべきか。全部分かっている。
なのに、体が付いてこない。
知っているのに、出来ない。これほど据わりの悪い事もない。
◆
「おい見ろよ、新入りが踊ってるぜ」
案の定、笑われた。
「女がひょろひょろと、何がしてぇんだ?」
「剣も持たずに、変な動きだな」
好きに言えばいい。
こいつらには、この型が何を作っているか分からない。分からないから笑える。幸せな事だ。
……もっとも、今の俺がやると、下手な謎の踊りにしか見えないだろうがな。そこは認める。
笑わせておけばいい。黙って続ける。
ただ、一人だけ、笑わない奴がいた。
あのチャラ男――ガイルだ。壁に凭れて、俺の型を、じっと見ている。面白がる目でもない。
……見る目のある奴は、いるという事か。
放っておく。今は、型に集中する。
◆
俺が磨くのは、突きじゃない。
肘、膝、蹴り。
拳を固めても、この腕じゃ意味がない。殴った俺の方が痛い。だが、肘は硬い。膝は下半身の力が使える。蹴りは、体で一番大きな筋肉を使う。非力な体でも、まだしも効く技だ。
空手と、躰道。
組み付かれ、密着され、押し倒される――女が一番不利な体勢から、相手を仕留める技を、先に仕上げる。離れて戦う技は、後でいい。この脚の速さで間合いを取り合っても、先に捕まる。
密着された距離は、非力な女には地獄だ。
だが俺にとっては、庭みたいなものだ。
◆
走りで足が出来てくると、型も変わった。
昨日まで途中で止まっていた突きが、今日は最後まで伸びる。腰の据わりが違う。蹴りの戻りが速い。肘の軌道が、鋭くなる。
頭の中の完成形に、体が日々近づいていく。
……面白いように、キレが増していく。
もっとも、まだ理想には程遠い。頭が10知っていて、体が3出せる、くらいのものだ。それでも昨日は2だった。一日で一つ増えた。上等だ。
笑っていた連中が、近頃は少し静かになった。謎の踊りが、日に日に冴えていくのを、黙って見ている奴が増えた。
……笑えなくなってきたか。まあ、好きにすればいい。
◆
夜は、体を洗う。
一日の汗と埃を落とす。走って、摘んで、型をやった体は、存分に汚れている。冷たい水でも、洗い流すと生き返る。
体を拭いながら、気づく。
これだけ食って、これだけ動いても、筋肉はすぐにはつかない。そういうものだ。体は、一朝一夕には変わらない。
そもそも、走り込みは筋肉を太くする類いの運動じゃない。むしろ逆だ。長く走れば、体は余分を削ぎ落として軽くなろうとする。
だが、それでいい。今欲しいのは力瘤じゃない。走れる足と、立ち続けられる芯だ。継戦能力が先で、力は後からでいい。太い腕が欲しくなったら、その時はその時のやり方がある。順番だ。
それでも体つきは、変わってきた。
余分な所が削げて、締まってくる。腕も、脚も、腹も。ムキムキとは程遠いが、棒っきれでもなくなった。バランスよく引き締まった、よく動く体だ。
……愛でられる為に磨かれた体が、使える体に変わっていく。持ち主が知ったら、複雑な顔をするかもしれんな。
◆
こんな日々を、半月あまり続けた。
走れる距離が延び、型のキレが増し、飯をよく食い、体が締まってきた。街には顔が売れ、懐も少しは温まった。
土台は、着実に固まってきている。
まだ強くはない。だが、昨日の自分よりは、確実に強い。それを毎日積み重ねている。
◆
その日も、いつものように森へ入った。
依頼の薬草は、群生地を覚えてしまえば造作もない。籠に摘み溜めながら、奥へ進む。
――足が、止まった。
茂みの向こう。草を踏む音。一つじゃない。複数。
低い唸り声。犬のような、しかし二本足の影が、茂みから姿を現した。
……コボルトというやつか。
この体になって、魔物と向き合うのは初めてだ。
数を数える。
一、二、三、四――五。
五体。こちらは、一人。
籠を、静かに地面へ下ろした。腰の短剣に、手をかける。
半月、地道に固めてきた土台だ。
……そろそろ、試してみるとするか。
11話・了
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