01
ざあっと樹々がざわめいて、一陣の風が抜けていった。譲は箒の動きを止め、吹いてきた方角を仰ぐ。
どういう理屈かわからないが、風はいつも神社の奥から流れてくる。
巨大な白い雲が、さっき見たところからほとんど動いていない。熱中症警報が発令されているが、常緑豊かな神社の境内はどこかひんやりとしている。
ちりとりで落ち葉を集め、ゴミ袋にまとめた。結構な量だ。
秋になったら色づく樹とは違い、常緑は少しずつ葉が入れ替わる。見た目は変化しなくても、いつの間にか静かに中身が巡っている。
「おじいちゃん、入り口の方の掃除、終わりました」
社務所に戻ると、祖父は机の上に和紙を広げていた。
「ああ。ありがとう、譲ちゃん。助かったよ。後でバイト代出すから」
「いえ。お世話になっているのはこちらなので、気にしないでください」
「譲ちゃんは優しいな。でも、こっちが助かっているのは本当なんだよ。……あの方の、面倒を見てくれているだろう?」
「コーラさんのことなら、別にそこまで大変でもないです。食費はおじいちゃんにもらっていますし」
食事は譲が食べるついでに用意すればいい。実家でも家族分を作っていたから、手間だとは感じない。
コーラさんは好き嫌いがないので、むしろやりやすいくらいだった。
テレビを見て、夕飯を食べて、きっちり2時間で帰っていく。譲が相手をしなくても、彼は何も気にしていない。
これが母方の幼い従兄妹たち相手なら、朝から晩まで遊びに付き合わされて、少しでも上の空なら機嫌を損ねられるから大変だ。
譲は箒とちりとりを片付けて、机を覗き込んだ。
「これって、祝詞ってやつですか? もしかして祝詞はいつも、おじいちゃんが書いてるの?」
「いや、これは普段のとは別で、特別なやつだよ」
「特別?」
「来月、うちで結婚式があるからね。その時のための祝詞を考えて、調整しているんだ」
「結婚式……」
神前式というのだったか。譲は、白無垢を着た花嫁の姿を思い浮かべた。
常緑の中、静かな境内で行われる式は、とても厳かで美しいものになるだろう。
「気になるかい?」
「そうですね。チャペルの結婚式はドラマや漫画でよく見るんですけど、神社はあんまりないから」
「確かにね。うちは縁結びの神社だから、これからも何度か見ると思うよ。式は一般の参拝客も見られるし、譲ちゃんもぜひ見ていくといいよ。将来のためにね」
譲は曖昧に笑った。
今のところそういう相手はいないし、自分が白無垢を着る想像もできない。
別に恋愛をしたくないというわけではないのだけれど、どこか自分とは縁遠い気がしている。
他人とそういうことになる自分を想像すると――少し、気持ちが悪い。
授与所から声がかかった。参拝客が列を作っている。祖父が席を立った。
譲はスマホを取り出した。午後3時。夕飯の支度までまだ時間がある。
ストラップが目に入った。父の形見のお守り。コーラさんからは「捨てろ」と言われたが、できなかった。
一応、新しいお守りを購入して、リュックのジッパーに結んでみたが、効果があるのかはわからない。「飯の礼」として相変わらずコーラさんが何かをして、譲は気がつけば不調から解放されている。
――おまえ、そのうち死ぬぞ?
コーラさんには、何が見えているのだろう。
ほとんど毎日会っているけれど、しかし顔を合わせているとは言えず、会話を交わすわけでもない。
その関係は楽だったが、肝心なことは何もわからないままだ。
聞いてしまったら、否応なく、彼の不可思議な領域に、踏み込まざるを得なくなるのだろうか?
一度、名前を聞こうと踏み込んで、失敗した。「好きに呼べば?」と軽い言い方だったけれど、拒絶されたように感じた。
コーラさんは望んでいないのだろう。もしそうなら、譲にできることは、このまま穏便な関係を続けることくらいなのかもしれない――。
ちら、と授与所の方を見る。祖父は参拝客と何か笑顔で話をしている。
譲は社務所を出た。
せっかく時間が空いたので、冷蔵庫にある食材を確認してから、スーパーに行こう。
そう思って、離れに向かおうとしたときだった。
「――ねえ、万華いる?」
突然話しかけられて、譲は足を止める。
参道に、一人の男が立っていた。
整えられた黒髪に、眼鏡。まるで人形のように白い肌、まっすぐで上品な鼻梁。
立っているだけで暑いこの時期に、淡いピンクのYシャツの襟をきっちりと閉め、落ち着いた群青のネクタイを結んでいる。ネクタイと同じ色のベストとスラックス。先が尖った黒の革靴。
彼は、にっこりと譲に笑いかけた。
「えっ……と……?」
譲は周囲を見渡した。
女性客が二人、雑談しながら素通りしていく。
そこにいるだけで息を呑むようなオーラの男がいるというのに、まるで気づいていないようだった。
「君だよ、君に聞いてる。万華に会いにきたんだ、案内してよ」
男は譲に近づいて、顔を覗き込んだ。
コーラさんほどではないが、背が高い。思わず一歩、後ろに逃げてしまった。
「あの、すみません。存じ上げません。どなたかと勘違いされていませんか?」
近くで見ると、そんな暑そうな格好をしているのに、汗ひとつかいていない。
「ええ? でも君から、確かに万華の匂いがするんだけどな」
そう言って、彼は鼻を寄せてきた。
喉の奥で、悲鳴が詰まる。
身を縮こませたとき、不機嫌な声が降ってきた。
「おい、色情狂。人ん家で盛ってんじゃねえ」
眼鏡の男の襟首をつかんで、譲から引っぺがす――コーラさん。
黒髪眼鏡の男が大きく手を広げ、
「万華! 久々だねえ! 元気だった?」
と、コーラさんに抱きついた。
すぐに男を引きはがして、コーラさんは冷たい目で男を見下ろす。
「元気だった? じゃねえ。なれなれしく触んな。殺すぞ」
「つれないな。僕と万華の仲じゃないか。親友でしょ?」
「いっぺん死んどくか?」
すごく嫌そうな顔のコーラさんと、にこにこ笑顔でそれを受け流す男。
譲はその間で、二人を唖然と見上げた。
「あ、えっと……お知り合いですか? 万華って」
――コーラさんの名前ですか?
と聞こうとして、譲は黙った。
コーラさんの冷たい目が、譲に向けられたからだ。
ひや、と凍るような冷気が流れてくる。息が止まった。
「ああ、ごめんね! そうそう、僕は宗真って言うんだ。こいつの親友」
「親友じゃねえ」
「だったら悪友でもなんでもいいけどさ。万華、この子に名前教えてなかったの? 知らないって言われたんだけど」
「うるせえな。俺の勝手だろうが」
「えー、かわいそー」
宗真は軽く笑って、するりと譲に近づき、肩に手を置いた。
譲が反応する前に、耳元でささやかれる。
「――嫌われたくなかったら、あいつの名前は呼ばないほうがいいよ」
ぱっと耳を手で庇ったが、宗真はすでに身をひるがえしていた。
「積もる話があるから、万華、ちょっと顔貸してよ」
「俺にはない。帰れ」
「いいからいいから。じゃあ譲ちゃん、またね」
宗真はコーラさんの肩を抱いて、神社の奥に入っていった。
譲はそれを見送って、あれ、と違和感を覚える。
名前。名乗ったっけ……?
華やかな男が二人。
けれど、参道を行き交う人たちは誰もそれに気づいていない。
生ぬるい風が吹く。
譲は、先ほど囁かれた耳をさすった。




