02
母との電話を切った。
譲は、石橋の上で、下に流れる川をぼんやりと眺めた。
闇に沈んだ境内。灯篭の光が、せせらぎの流れを映し出している。集まってきた虫が横切っては、戻ってくる。
離れに戻った。
襖を開ければバラエティ番組の音がして、コーラさんがそれを見ている。
その手に、ペットボトルのコーラ。
譲は、押し入れから旅行鞄を取り出した。
数日分の服と下着を出して、詰めていく。お泊り用の歯ブラシセットと洗顔料、保湿用のクリーム。休み中に読もうと思っていた文庫本も詰めた。
番組が終わった。コーラさんが帰る気配がする。譲は声をかけた。
「あの……コーラさん」
万華という名前は、あれから一度も呼んでいない。
あの凍るような瞳を知ってもなお呼ぶことが、譲にはできなかった。
「私、明日からしばらく実家に帰るので、ここにいません」
キャップを開ける音がした。残りのコーラを最後まで飲んで、コーラさんは「あ、そう」と軽く言った。
「夕飯は作れないので。えっと……おじいちゃんに言っておくので、おなかすいたら、社務所の方に行ってください」
空のペットボトルをテーブルに残して、コーラさんは離れを出て行ってしまった。
譲はため息をついた。
夕飯がないと告げて、自分は何を期待していたのか。
彼は一度だって、譲の料理をおいしいとは言ってくれないのに。
次の日の朝、電車に揺られて実家に帰った。
遠くに海を臨める丘に建てられた一軒家だ。
チャイムを押すと、化粧をしていない母が出迎えてくれた。
「譲、ありがとうね、助かるわー」
眉を下げて笑う母の右手は、ギプスで包まれていた。
「事故って聞いたけど」
「そう。自転車でねー、飛び出した子供とぶつかりそうになって、慌てて転んだらこれよー」
母はのほほんと笑った。
「無理に動かさなければ痛むことはなくなったけど、家事がねー」
そう言ってキッチンに入ると、シンクが洗い物で埋まっていた。
「洗濯物もやばいのよー。洗濯機に入れるのは簡単なんだけど、干すのが」
「ああ……」
キッチン近くの脱衣所を覗く。籠から溢れた洗濯物に、譲はうわあ、と口を開けた。
床を見れば、どこもかしこも埃が目立っている。掃除も必要そうだ。
「とりあえず、荷物置いてくる。そしたら先に洗濯物回すね。お母さんは座ってて」
「ありがとう」
二階に上がって、自室のドアを開けた。
引っ越しで粗方持っていってしまったから、がらんとしている。
旅行鞄を置いて、脱衣所に戻った。色物とそうでないものに分けて、洗濯機を回す。
その間に、シンクの洗い物を綺麗にすることにした。
ダイニングキッチンで、母がノートパソコンを使っていた。
片手でやりにくそうではあったが、何とか仕事はできているようだ。
洗濯機は、4回も回した。ベランダは洗濯物であふれた。
台所を綺麗にした後は、家じゅう掃除機をかける。
夕方までには、家はすっかり綺麗になった。
「持つべきものは働き者の娘だわー」
快適になったと、母が満足げに言った。
譲は、乾いた皿を食器棚に仕舞う。
「夕飯、何がいい?」
「そうねえ、久々に譲のハンバーグが食べたいかも」
ハンバーグか。
冷蔵庫を開けるが、材料が足りない。
「ハンバーグは無理かな。買い物行ってもいいけど、遅くなっちゃう」
「じゃあ、今日は冷蔵庫の中のもので適当に食べましょ。ハンバーグは明日ねー」
譲は息をついて、冷蔵庫から根菜を取り出した。肉じゃがはできそうだ。
「譲、大学生活はどう?」
玉ねぎの皮を剥いていると、母が興味津々の目で見てくる。
「楽しいよ。友達もできたし」
「下宿先は? うまくいっているの?」
「うん、立派な離れに住まわせてもらってる。後で写真見せるね」
「離れ! いいわねえ。あの人の地元の大学に行きたいって言いだしたときはびっくりしたけど、楽しくやれているならよかったわー」
人参とじゃがいもの皮を剥いて切り、鍋に入れて火にかける。肉がないけれど、急ごしらえなので仕方がない。
米を取り出して、洗う。
「友達の写真もある?」
「うん。あるよ。後で一緒に見せるね」
「いい人はできた?」
譲は一瞬、言葉に詰まった。
「……いい人?」
「いやね。彼氏よ、彼氏。かっこいい人いたー?」
「かっこいい人は……」
……いるけれど。
でも彼とは、そんな関係ではない。
譲は、彼の名前を呼ぶことすら、まだ――。
「……いません。そんなすぐ、彼氏なんてできないよ」
「えー、残念。お母さん、譲がかっこいい彼氏を連れてきてくれる日を心待ちにしてるのにー」
炊飯器に米をセットする。
豆腐と乾燥わかめがあったので、肉じゃがを作るかたわら、味噌汁を用意した。
あと一品はサラダでいいか、ときゅうりを取り出したところで、玄関から音がした。
「あら。おかえりなさい。譲が来てくれているわよー」
「ああ、譲ちゃん。おかえり」
部屋に入ってきた男の声に、譲はぎゅっと、きゅうりを握る手に力を込めた。
「ただいま帰りました。……お義父さん」
母と同じくらいの中年の男。七年前に、母と再婚した人。
決してかっこよくはないが、営業職らしい、人の好さそうな顔つきの男性だ。
「先にお風呂に入るわよね。入れてくるわ」
母が風呂場に行った。
義父は、ソファに鞄を置くと、ネクタイを緩めた。
台所にやってきて、冷蔵庫を開け、ビールを取り出す。
「いやあ、毎日暑いねえ。譲ちゃん、ありがとう」
譲はいいえ、と言って、きゅうりをざく切りにする。
「譲ちゃんがこうしてキッチンに立つのは久しぶりだ。懐かしいな。ちょっと大人っぽくなったかな?」
義父がグラスを取り出して、冷えたビールを注いでいる。
彼は笑いながら、譲の頭の上からつま先までを何度か見た。
ボウルを取り出して、切ったきゅうりを入れる。
母が戻ってきた。
義父はビールを一口飲みながら、ダイニングテーブルの方へ行った。
譲は冷蔵庫を開けて、梅干しを取り出す。
何だか酸っぱいものが食べたくなって、梅きゅうりにしようと思った。
「譲、いつまでいるの?」
「お母さんはいつまでいてほしいの?」
夕飯の時に聞かれて、そう返す。
「いつまでも!」
「大学が始まったら無理だよ」
「あーん、譲がいないとお母さん何もできなーい」
ははは、と義父が笑う。
「夏休みいっぱい、うちにいてくれていいんだよ。ここは譲ちゃんの家でもあるんだから、好きなだけいたらいい」
母も頷いている。
再婚すると言われたときは戸惑ったけれど、今は、これでよかったのだと思う。
義父と一緒にいる母は、譲の知るどの母よりも、柔らかく笑っているから。
譲は曖昧に笑って、きゅうりを口に入れた。がり、と噛むと、梅の酸っぱい味がした。
溜まった家事を片付けたせいか、肩が重かった。
早めに休むことにしようと思った。




