06
蝉が鳴いている。
常緑豊かな森は蝉の楽園らしく、あちらからもこちらからも空気を震わせて、自己主張している。
午前中に、理央がやってきた。
駅まで迎えにいって、一緒に離れまで来たのだが、その往復だけで汗だくになってしまった。
あらかじめエアコンを入れていたので、入った瞬間に二人で「ここが極楽か」とふざけ合う。
「わー、いいとこ住んでるねえユズ」
冷えた麦茶を出す。理央は持ってきたお菓子を開けた。
「私も一人暮らししたいなあ。実家は弟がうるさくって」
「理央、弟がいるんだ」
「二人いる。ユズは?」
「一人っ子だから、兄弟うらやましい」
「えー、うるさいだけだよー」
お菓子をつまみながら、勉強をした。
来週からテスト期間だ。それが終わったら夏休みが待っている。
お昼は譲が作った。理央が、譲の手料理が食べたいと言ったからだ。
簡単なものしか作れないけど、と断って、親子丼を作った。理央からは絶賛されたが、三つ葉を用意していなかったので、何か物足りなかった。
食後のデザートにシャーベットのアイスを出す。
「そろそろ美容院行かなきゃ」
「伸ばしてたんじゃないの?」
「そのつもりだったんだけど、暑すぎて無理。ユズは? ずっとショートボブだけどイメチェンしないの?」
「んー、これが一番、楽だからなあ……」
「ユズなら明るめの色、すごい似合うと思うけどなー」
シャク、とアイスをスプーンですくって、譲はうーん、と首を傾げた。
「染めるのは、別にいいかなあ。おしゃれにそこまで興味ないし……」
「もったいなーい! 花の大学生なのに!」
そうは言われても、と譲は苦笑いする。
理央みたいな美人がおしゃれを楽しんでいるのは、見ていて楽しいと思う。
しかし自分がそれをやるのは、何だか違う。
綺麗なものや可愛いものを眺めるのは好きだが、自分がそれになりたいとは思わなかった。
「テスト終わったらさ、合コン行かない?」
「ご、合コン?」
「実はさ、ユズを紹介してって言ってるヤツがいるんだよねー」
「え、ええ……」
どういう反応をしていいのかわからず、譲はスプーンを噛んだ。
「今、彼氏いないんでしょ? じゃあいいじゃん」
今というか、生まれてこの方いないけれど。
ふっと、コーラさんの顔が浮かぶ。でもコーラさんは――彼氏……ではないし。
そもそも、あの人との関係を何と呼べばいいのか、譲にはよくわからなかった。
それ以上考えても仕方がない気がして、譲は結局、曖昧に頷いた。
勉強会は、5時前にお開きになった。
机の上を片付ける。理央が靴を履いている間に、リュックに財布とエコバッグを詰めた。
理央を送る目的もあったけれど、帰りにスーパーに寄らないと、今日のコーラさんの夕食がインスタントラーメンになってしまうのだ。
……それはそれで、どういう反応をするのか見たい気持ちはあったが。
ガラッと引き戸を開ける音がする。
譲は慌てて玄関に向かった。
「待って理央、すぐ行くか、ら……」
理央は玄関の小上がりに座って待っていた。
玄関のドアを開けたのは理央ではなく――コーラさんだった。
どうして。まだ5時なのに。
「えっ、この人……昨日のコンビニのイケメンじゃん!」
理央がコーラさんを指さす。
コーラさんは、玄関を閉めて、理央の横で無造作に履き物を脱ぎ、小上がりに上がる。
譲を横切って部屋に入ると、いつものようにテレビのリモコンを取って、電源を入れた。
テレビから音が流れ出し、番組が映る。
理央が唖然として、譲を見た。
「ユズ、やっぱりこの人彼氏――」
「ちがうよ!」
「だったらなんで、人の部屋に、こんな普通に上がり込んでんの!?」
「えっと……その、うまく言えないんだけど……」
コーラさんが動いた。
台所に繋がるガラス戸を開け、冷蔵庫から新しいコーラを出す。
無駄のない動作だった。もう何度も繰り返しているとしか見えない動き。
理央の表情が、さらに険しくなった。理解不能といった雰囲気だ。
理央は譲の手を引っ張って、声を潜めた。
「ユズ、ヤバいって。顔がいいのに騙されちゃダメ、もっとまともなヤツと付き合いなって!」
「いや……付き合ってないから」
「なら余計ヤバい。彼氏でもないやつ、簡単に家に上げちゃだめじゃん!」
譲は言葉に詰まった。
理央の言うことは正論だった。しかし、簡単には頷きづらい。
確かにちょっとおかしな人ではあるが、でも、コーラさんは――。
理央が靴を脱いで、部屋に戻った。
「ちょっとあなた!」
コーラさんを指さして、理央が仁王立ちする。
「譲とどういう関係? なんで譲の部屋に勝手に上がってんの?」
コーラさんは無反応に見えた。
いつもの定位置で、コーラのキャップを開けて、飲みながらテレビを見る。
「ちょっと、聞いてるの?」
「り、理央。だめだって」
コーラさんはリモコンを取って、テレビの音量を上げた。
理央の口元が引きつる。
「なんなのコイツ!」
「理央ってば! いいから、ね、帰ろう?」
「ユズもユズ! お人よしもいい加減にしないと、こんなダメンズ引っ掛けることになるんだよ?」
理央の言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
別に譲は、コーラさんに優しくしているつもりはない。彼が部屋に来るのを許容しているのは、優しさではなく。
――あの人みたいな目で、見てこないから。
スマホを握りしめる。お守りのストラップが揺れた。
「とにかく、彼氏でも友人でもないなら、この状況はおかしいから。ケーサツ呼ぼう!」
理央がそう言いだして、譲はぎょっとした。
「ま、待って理央。警察って」
「あなたも! 今すぐ出て行かないならケーサツ呼ぶわよ!」
理央が110を入力したスマホ画面を、コーラさんに見せた。
「り、理央。だめだよ」
「ユズ。こういうのはしっかりと線引きしておいたほうがいいの。なあなあにすると、ずっと変わらないままなんだから!」
理央は厳しい顔で、通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
そして。
――おかけになった番号は、現在使われておりません。
ああ。譲は自らのスマホを胸に抱いた。
あのときと、同じだった。
「えっ? 何、どういうこと?」
理央が戸惑っている。
スマホを操作して、また110を打ち込んで、呼び出す。
――おかけになった番号は、現在使われておりません。
影が落ちた。
いつの間にかコーラさんが立ち上がって、理央を見下ろしていた。
「ひっ」
理央が後ずさって、壁に背をつける。スマホが畳の上に落ちる。
「くそうるせえな。警察、警察って」
その瞳が、冷たく輝いているように見える。
空気が、すっと冷えた気がした。
「困るのは宮司だからよ、俺は問題ねえが……ここが騒がしくなるのは、めんどくせえんだよな」
コーラさんの腕が伸びる。大きな手が、青ざめた理央の両目を覆うようにかぶせられる。
譲ははっとして、その腕に駆け寄った。
「待って! 理央にひどいことしないで!」
コーラさんが、ちらと譲を見る。
理央の足から力が抜け、ずるりと座り込んでしまう。壁に背を預けて、横に倒れる。
「理央!」
理央は、眠っているようだった。規則正しい呼吸が聞こえる。
畳に落ちていた理央のスマホを、コーラさんが拾い上げる。通話終了のボタンを押して、理央の手の中に戻した。
「理央に何をしたの?」
「別に。暗示をかけただけだ。すぐ目覚める」
言葉通り、理央はすぐ気がついた。頭を押さえながら、起き上がる。
「理央。大丈夫?」
「んー……ごめん、なんか寝ちゃってたみたい」
うう、と唸りながら、理央が手元のスマホを見る。
時間を確認して、「やば」とつぶやいて、立ち上がった。
「そろそろ帰んなきゃ。ユズ、また連絡するね」
「えっ、う、うん」
部屋にはまだコーラさんがいる。
なのに、理央はコーラさんが全く見えていないかのように素通りして、出て行った。
ばいばーい!と手を振る理央は普段通りで、さっきの出来事がまるで嘘のようだ。
譲は唖然として、理央の後姿を見送った。
室内からは、テレビの音が流れてくる。音量が元に戻っている。
部屋に戻る。
コーラさんが、コーラを飲みながらテレビを見ている。
この人が、何者なのかはわからない。普通の人ではないだろう。
わかっている。出会った時から、普通ではなかった。
譲は襖を閉めて、台所に向かった。やかんを取り出して、お湯を沸かす。
「おまえさ、あんまり変なもの連れてくんなよ」
声をかけられて、譲は振り向いた。
――コーラさんから、話しかけられた。
初めてのことだった。
「……理央は、友達です。変なものなんかじゃ」
「今のやつだけじゃねえ。毎日変なもの連れて来すぎなんだよ」
広い背中が見える。顔をテレビに向けたまま、彼は言う。
「そのお守り」
譲はどきりとした。
シンクの上に置いたスマホのストラップに、自然と目が行く。
お父さんの形見のお守り。
「さっさと捨てて、新品に交換しろ。宮司に祈祷してもらったやつな。少しは効果が見込める」
「え……」
「おまえ、何でもかんでも受け入れすぎなんだよ。彼岸のやつらまで引き寄せやがって。俺が処理してやってるうちはいいが、それがなくなったら――」
少しだけ低い声で、コーラさんは言った。
「――おまえ、そのうち死ぬぞ?」
やかんのお湯が沸騰する音がして、譲はコンロの火を止めた。
「……」
視線を落とす。
ただ、コーラさんにお守りを捨てろと言われたことが、じわりと染みのように心に残る。
お箸と箸置きを取り出す。
鍋敷きとやかんをローテーブルに運んで、夕飯を用意した。
テレビから笑い声が流れる。
ちっとも面白くない。
コーラさんが眉間に皺を寄せて、訊いた。
「……何これ」
「インスタントラーメンです」
「いんす……なんだって?」
半分残ったペットボトルのコーラが、ローテーブルの上にあった。
購入済みのシールが、ひっそり貼られていた。




