04
初夏の汗ばむような日中の日差しも、神社の参道に入ってしまえば、爽やかな温度になる。
譲は、食材が詰まったエコバッグを持ち直した。最近、肩こりがまたひどいので、片方にだけ提げているとすぐしんどくなってしまう。
テニスボールを打つ音と子供たちの声が、常緑の中で響いている。表の参道の左手、林の奥に、テニスコートがある。コートから「譲ちゃーん!」と手を振る子供たちに、譲は手を振り返した。
授与所の前を通ると、カップルや若い女性が並んでいた。恋愛成就、縁結び、と書かれたお守りが、今日もよく売れているようだ。
拝殿に繋がる道を左に折れ、石鳥居をくぐれば、譲が間借りしている離れが見えてくる。表の参道と比べて、こちらは人気がない。急にしんと音がなくなってしまう。
玄関の鍵を取り出した。けれど、それを使わずに、まずは引き戸を引いてみた。からりと音がして開いてしまう。譲は、はあ、とため息をついた。玄関には、無造作に脱ぎ捨てられた男物の厚底ブーツがあった。
そのブーツをきちんと揃え、譲は部屋に繋がる襖を開ける。テレビの音が流れ出す。
八畳間の和室。コーラのペットボトルを片手に、金髪の男が居座っていた。
アイボリーでまとめた家具に、明るいミントグリーンのベッドシーツ。かわいい系の小物類。
そこにまったくそぐわない男が一人。
季節に合わせて七分袖のシンプルなパーカーに着替えてはいるけれど、過剰すぎるアクセサリー類は相変わらずだ。
――顔だけは、いいんだけどなあ。
テレビ画面には、バラエティ番組が流れていた。男は譲が入ってきても、微動だにせず画面を見ている。
大学用のリュックを壁にかけ、男の脇を通って、奥のガラス戸を開けた。そこは小さいけれど台所になっていて、譲はここで毎日自炊をしている。
買ってきた食材を冷蔵庫に入れる。ポケットにコーラのペットボトルが入っている。2本。朝まではなかったのに。譲は息をついた。
あの初めての出会いの翌日から、金髪の男は悪びれもせずにやってきて、勝手にテレビをつけて見ていくということを繰り返していた。ほぼ毎日。
もちろん、譲は抵抗した。ここは譲の部屋なのだ。
けれど、注意して拒否しても、まったく取り合ってくれない。そもそも譲が見えていないかのように振舞い、テレビ閲覧の邪魔をすると不機嫌な顔で怒る。被害者なのはこちらなのに。
祖父にも相談した。譲のために男と交渉してくれたが、「彼の部屋にテレビを置こうって提案したんだけど、置く場所がないって……」と肩を落として帰ってきた。
最終手段として、鍵の交換をして物理的に締め出そうとした。祖父は「たぶん無駄だと思うな」と言っていたが、引き戸の古さは気になっていたようで、新しいものにしてくれた。
やっと安心できると思ったのに――。
テレビからCMの音がして、譲は台所から顔を出す。
「2時間、ですからね!」
「うるせえな、わかってるよ」
譲は玉ねぎと挽肉、豆腐を取り出して、シンクに向かった。
最初は意味がわからなくて、知らない男性に自分の部屋に踏み込まれることが、愉快不愉快ではなく恐怖だった。
譲だって年頃だし、洗濯物を干していることもあれば、着がえの最中だってある。
けれど、彼は譲がどういう格好でも、部屋に洗濯物が干されていても、これっぽっちも態度を変えなかった。視線すら向けない。
譲のことを、心底どうとも思っていないのだ。本当に、テレビを見に来ているだけ……。
祖父の言葉もそれを後押しした。
「悪いが、しばらく様子を見てやってくれないか。あの方は、悪さをなさる方ではない。ただ、少し……人の気持ちに疎いところがおありでね」
「……おじいちゃん、普通に考えたらすごく変なことを言ってますよ」
「そうだね。すまない」
「危ない人では、ないんですよね?」
「そこは約束するよ」
そのやり取りで、譲は腹をくくった。
しかし、長時間居座られるのは、さすがに勘弁してほしい。
それで、条件を出した。
一日2時間まで。
祖父と一緒に交渉した結果、それで話がまとまった。あれだけ話を聞かなかったのに、その条件はあっさり飲まれて、拍子抜けだった。
以来、夕方4時半くらいから夜10時の間の2時間。彼は譲の部屋に来て、テレビを見ている。
米を研いで、炊飯器にセットした。
玉ねぎの皮を剥いて、半分はみじん切りにする。残りの半分はくし切りにして、豆腐と一緒に味噌汁の具にする。
卵を2個取り出して、冷蔵庫を閉めた。
みじん切りにした玉ねぎを炒め、飴色になったところで、挽肉を投入。塩コショウで軽く味をつけながら火を通す。
炊飯器を確認すれば、残り5分で炊きあがるようだった。
卵を溶き、フライパンの具を一旦上げる。空になったフライパンへ溶き卵を入れて、少し固まったところで、上げた具を半分戻す。
じゅわ、といい香りが広がる。
あとは、この具をくるんと卵で包み込めば完成である。もう半分は冷凍して、明日のお弁当の具にする予定だった。
そのとき、ふっと手元が翳った。
「それ何?」
気がつくと、金髪の男が、譲の頭の上からフライパンを覗き込んでいる。
心臓が跳ねた。
その手に、新しいコーラのペットボトルが握られていた。うっすらと表面が結露している。
冷蔵庫から取り出したのだろうか。まったく気配が感じ取れなかった。
男が鼻をすんと鳴らす。
「うまそう」
「……挽肉の、オムレツです」
「おむれつ」
譲はおかしくなった。
少しだけ舌足らずなその言い方が可愛かった。
「えっと……食べます?」
思わず尋ねていた。そこまでする義理なんてないのに。
「食べる」
「じゃあ、もう少し待っててください」
男は素直に台所から出て行った。
卵を追加で2個割って、オムレツをもう一個作る。明日のお昼は、久々に学食で済ませよう。
炊飯完了の音が鳴った。
ごはん用と汁物用のお茶碗は、それぞれ譲の分しかない。
今回はお客様に譲ることにして、自分の分はマグカップと平皿で対応することにした。代わりのお箸もないので、フォークで代用しよう。
ローテーブルを拭いて、料理を運ぶ。最後に冷蔵庫からケチャップを持ってくる。
自分のオムレツに、ケチャップで左右に曲線を描いた。どうぞ、と男に渡すと、彼はじっとケチャップを見て、オムレツにまっすぐ線を描いた。
いただきます。手を合わせて食べる。
譲はフォークでオムレツを割り、すくって食べた。うん。おいしい。
そっと目の前を見ると、男はまず味噌汁に手をつけ、それからオムレツをそっと割った。挽肉がぽろぽろ零れやすい料理のはずなのに、綺麗に口に運んでいく。
男の大きな手に女物の箸は扱いにくいはずだが、苦にもしていないようだ。丁寧で美しい所作に、思わず顔と手を何度も見てしまった。
「あの。どうですか、オムレツ」
「食える」
食える、とは。
男の感想に、思わず半眼になる。
じゃーん、と音が鳴って、アニメ番組のオープニングが始まった。ご長寿番組の探偵アニメだ。
譲は、今のこの状況が、客観的にどう見てもおかしいな、と気がついた。
夕食を共にしているはずなのに、譲はこの男の名前も知らない。どこの誰で、何をしているのか。祖父とどういう関係なのか。
何も知らない男に夕飯を作って、一緒に食べて、なぜか一緒にアニメを見ている。
「あの……」
オープニングが終わってしまう前に、声をかけた。
「いまさらですが、なんてお呼びすればいいですか?」
男の視線が、今日初めて譲に向く。ほぼ毎日顔を見ているが、視線が合ったのは久々だった。
少し長い沈黙。不機嫌ではないけれど、わずかに不愉快そうな目だ。
「さあね。好きに呼べば?」
それきり、目をそらされる。
アニメの本編が始まってしまった。譲は黙って、食事を続ける。
喉の渇きを覚え、そういえばお茶を出していなかった、と台所へ戻った。
冷蔵庫から作り置きのお茶を取り出す。グラスに注いで、男にも出しておいた方がいいかな、と振り返れば、コーラを飲んでいた。喉が上下している。
「……」
コーラって、普通のごはんの時に飲むものだっけ。よくわからなくなった。
お茶を冷蔵庫に戻した。
アニメの前半が終わった。
「コーラさん」
譲は声をかけた。
「好きに呼べば、って言われたので。コーラさんって呼ぶことにします」
――かなりのコーラ狂いのようなので。
男とまた目が合った。すぐにそらされる。
「呼び名に意味なんてねーし、それでいい」
では、コーラさんに決定だ。
コーラさんは、出した料理をご飯粒ひとつ残さず、綺麗に食べていった。
2時間ぴったりテレビを見たところで、部屋から出ていく。
出ていく直前に、譲の肩の上あたりをさっと振り払う仕草をした。
途端、鼻に抜けていく爽やかな香り。
「飯の礼」
とよくわからないことを言って。彼はいなくなった。
肩に触れる。ひどかった肩こりが、嘘のように軽くなっていた。
「……マジカルコーラさん」
ローテーブルの上には、綺麗になった食器と、空のペットボトル。
譲はテレビを消して、食器を片付けた。
とりあえず、男性用の食器を用意しないといけない。
祖父に相談してみるか、駅前の百均を覗いてみようか――。
残った味噌汁を冷蔵庫に入れる。
ポケットに、コーラが残っていた。最後の1本。
このままでは、冷蔵庫までコーラさんに浸蝕されるような気がする。さすがに食材を入れるスペースがなくなるのは、我慢できない。
メモ帳に黒の油性ペンで大きく文字を書いて、冷蔵庫のドアに張った。
『コーラは2本まで!』




