01
小さい頃、お父さんが好きだった。大きくて、いつも温かかった。
お父さんは言っていた。
――「ゆずる」って名前は、皆に優しくあってほしい、という願いからつけたんだ。誰かにした親切は、巡り巡って自分に返ってくる。だから譲、人に優しくありなさい。
そして、こうも言っていた。
――でも、本当に譲れないものができたら。その時は、譲っちゃだめだよ。お父さんとの約束だ。
頭を撫でるお父さんの大きな手。譲を抱っこしてくれた強い手。
それがある日突然冷たくなって――十年が経って。
譲は、横断歩道の先、石でできた鳥居を見上げた。
あいにくの雨模様だった。ぽつぽつ冷たい雨が傘を叩いている。3月の終わりだったが、とても冷える。スカートではなく、パンツを履いてくるべきだった。
赤信号。ふう、とため息をつく。ずきんと頭痛がした。
受験疲れか、風邪か。最近ずっと頭と肩が重くて、眠れない。入学式の前に、一度診てもらおう。
スマホで、時間を確認する。5時過ぎ。遅くなってしまった。とっくに引っ越し業者が荷物を運び入れてくれているはずだけれど、大丈夫だろうか。
ストラップ代わりの古いお守りが揺れる。破れて一度縫い合わせた痕が目立つ。
青信号になった。人が動き出す。
背を押されるように進んだ。軽量スニーカーなのに、異様に歩きにくい。
神社側の横断歩道には、車止めのポールが立っている。ベビーカーを押す女性が見えたので、道を譲ってからまた歩む。
何とか鳥居前にたどりついたけれど、息が上がっていた。
石の鳥居前は、十台くらい停められる広い駐車場になっていた。鳥居の手前脇に大きな石があって、神社の名前が彫ってある。
万緒神社。
街の中にあって、鳥居の向こうは急な常緑が広がっている。駐車場にライトはあったけれど、参道の奥は真っ暗で、静まり返っていた。
目の前の道はなかなかの交通量だというのに、この神社だけ別世界のような異質な空気。
少しだけ奥に進むのが怖くなった。
肩に提げた旅行鞄がどんどん重くなっている気がして、思わず持ち直す。
一歩、進んだところで――
「おい。それ、連れてくるなよ」
鳥居の向こうに、人影があった。
――いつの間に。
影が落ちて、顔が見えない。
舌打ちする音が聞こえて、人影がゆっくりとこちらに近づく。
鳥居をくぐって、その姿がライトに映し出される。
まず見えたのは、金色の髪だ。そして、くすんだ赤の迷彩パーカー。
顔が見えて、譲は一瞬、息を忘れた。
テレビでしか見たことがないような、整った顔。きらりと耳のピアスが光る。
その眉間に皺が刻まれている。
「おまえ、マジかよ。そんだけ連れてて、まさか自覚ゼロ?」
雨なのに、傘も差していない。
譲を睨みながら、どんどん近づいてくる。
首に下がる太いネックレス。Vネックの黒いシャツ。両手の指に、ゴテゴテした指輪が4つずつ。黒のパンツに、数センチもある厚底のブーツ。不良だ。
譲は、思わず後ずさりした。
近くまでやってきた男は、譲よりもはるかに背が高かった。体格も大きい。
「うわ」
と、男が譲を見て、また舌打ちする。
否――譲ではなく、後ろを見ているような。
譲はちら、と後ろに目をやった。車が行き交う道と、スーパーマーケットが見えるだけだった。
「今日はもう閉門。帰れ」
しっしっ、と追い払われるような仕草に、譲は眉を下げた。
もしかして神社の関係者なのかと、もう一度頭の上からつま先までを確認する。どう見ても不良っぽい。
「あ、あの。私、白川と言います。おじいちゃんがここの宮司をしていて、今日からここでお世話になる予定で……」
「あ?」
どこか視線がずれていた男が、ようやく譲と目を合わせる。
じわりと目を細め――その視線が譲の持つ、スマホのストラップで止まった。
「おまえ……マジか」
途端、男は手で顔を覆って、はあー、と大きく肩を落とした。
「くそめんどくせえ」
「あ、あの……?」
譲は首を傾げる。
正直、もう立っているのもやっとなくらいだった。早く祖父に会って、休みたい。
男が息をついて、顔から手を離す。
す、と譲を――否、また譲の後ろを睨んで、冷たく吐き捨てる。
「仕方ねえか。中に入られるよりはマシだ」
と、その腕を真横に振り抜いた。
譲は思わず目を閉じて、体を縮こまらせた。
頭上を風が流れていって――後からふわりと香りが立つ。
清々しく、少しだけ甘さを含んだ匂い。どこか懐かしい。
はっと目を開いた時、男はもう背中を向けていた。
鳥居の向こう側に姿を消す。すぐに影に隠れる。
今のは一体、何――? 譲は瞬いた。
「……おじいちゃんのとこ、行かなきゃ」
足を踏み出す。
あれ、と気がついた。
ここ最近、ずっと譲を悩ませていた重い疲労が、嘘のように消えていた。
足は軽く、頭や肩はすっきりしている。あんなに重かった旅行鞄が軽い。
譲は、スマホにぶら下がるお守りのストラップを撫でてから、鳥居の奥に目をやった。
とっくに男の背中は見えなかった。




