06
ピピッという電子音がして、体温計を取り出す。37.6度。
譲は息をついた。
肩が重い。目の奥もじんじん痛む。
けれど、休むほどではないと思う。
朝の支度をする。今日はゼミのみんなと、9月に提出する課題について話し合うことになっていた。
おなかはすいていなかったけれど、薬を飲むには何か入れた方がいい。焼いたトーストを半分だけ食べて、風邪薬を流し込んだ。
夏休みに入ったキャンパスは、授業期間中よりずっと静かだった。
それでも完全に無人というわけではなく、図書館へ向かう学生や、サークル活動らしい集団がちらほら歩いている。
「ユズー、おはよー!」
学生ラウンジの一角で、理央が大きく手を振っていた。理央にしては珍しく早い。
「おはよう、白川さん」
理央の向かいに、同じゼミの藤本くんが座っていた。
藤本くんは広げていた資料を少し寄せて、隣の席を空けてくれた。
彼は清潔感のある穏やかな人で、譲と理央が属するグループのリーダーだった。
「ありがとうございます」
「大丈夫? 顔、少し赤いけど」
「え、そうですか? 暑いからかも」
「無理しないでね。今日、ざっくり方針決めるだけだし」
譲は少しだけ肩の力を抜いた。藤本くんはメンバーのことをよく見ている人で、こういうところがリーダー向きなのだろうなと思う。
ふと理央を見ると、藤本くんに目配せして、にこにこしていた。
「何? 理央」
「んふふ、何でもなーい」
なんだか妙に含みのある笑い方だった。
しばらく三人で世間話をしていると、他のゼミ仲間たちが続々と集まってきた。
佐伯くんが、手にしていたアイスコーヒーを掲げる。続いて三浦くんと真帆がやってきて、これで全員が揃った。
六人で、課題の役割分担やスケジュールについて話し合う。
「結構、一人頭の調査量多くなりそうだよなぁ?」
「資料によっては、図書館に通う必要がありそうよね」
「郷土史調べがてら、現地の雰囲気もつかんでおきたいかも」
「げ。俺、来月8日から、合宿でほぼいないんだけど……」
佐伯くんが困ったように頭を掻く。彼はテニスをやっていて、高校時代から大会で表彰されている有望選手らしい。
藤本くんが手帳をぺらりとめくって、8月のカレンダーを確認する。
「8日からか。佐伯はそれまでにどれくらい動けそう?」
「あー、ぶっちゃけ地元のクラブでの練習もあるから、図書館は来られても1回か2回くらいになるかも」
「なるほど……確かにそれは、ちょっと微妙だな」
佐伯くんは確か、大学まで片道一時間ちょっとかかる場所に住んでいたはずだ、と思い出して、譲は片手を上げた。
「あの、佐伯くんの調査分は、私が代わりにやります」
「マジで? 白川さん神!」
「ユズ~、大丈夫? 二人分って結構あるよ?」
「図書館で見る資料なら、私が一番大学に近いし。8月はずっとこっちにいるから」
譲がうなずくと、確かに、という雰囲気が流れる。
藤本くんが、顔を上げて、譲を見た。
「……じゃあ、白川さんお願いできる? ただ、二人分を全部引き受けてもらうのは量的に厳しそうだから、僕と分担しよう」
「え、でも」
「僕も大学からは近い組だし。二人でやったほうが早いよ。サークルもやってなくて夏休みは暇だからね、気にしないで」
「……ありがとうございます。じゃあ、お願いします」
断る理由を探す前に、譲は小さく頷いていた。
「あ、じゃあさ。先に現地調査に行こうよ。ここって海が近いじゃん? 一泊二日で旅行を兼ねて行ってみるのアリじゃない? 佐伯もさ、そのくらいなら動けるんでしょ?」
現地の地図を見ながら、理央が提案した。
三浦くんが「ほう」と身を乗り出した。
「確かそばに温泉もあるんだっけ?」
「あるよ。海水浴場と温泉と、ちょっと移動すれば有名なテーマパークもあるみたい」
「メシも海の幸で美味いんでしょ? ありだな、それ。佐伯どうなの?」
「一泊二日か、まあそれくらいなら何とか……」
「じゃあ決まり。泊まるところと移動手段だけ決めよっか」
正午を知らせる鐘が鳴った。時間切れだ。
「もうこんな時間? 午後からバイトだから帰らないと」
「俺も」
予定のあるメンバーが次々に立ち上がった。
「ユズ、良かったら泊まるとこ、候補だけでも見といてくれない?」
理央が、筆記用具とノートを鞄の中に詰め込みながら言った。
「いいけど、旅行は詳しくないから、適当に挙げるだけになっちゃうよ?」
「ありがと、助かる~! なんだかんだ、ユズならいい感じのとこ見繕ってくれそう」
「それはわかる。細かいとこまできっちりやってくれるし安心感ある」
他のメンバーもそれに同意して、譲は軽く口の端を上げた。
胃の裏側が撫でられるような感覚が走る。本格的に熱が上がってきたのかもしれない。今日は何も食べられそうになかった。
打合せは解散になって、藤本くんを除く全員が、足早に帰っていった。
「僕は図書館に寄ってくるよ。ちょっとでも課題を進めておきたいから」
「あ、じゃあ私も――」
「いや、白川さんは帰った方がいいかも。なんだか顔色悪いよ。無理してるんじゃない?」
鞄を持った藤本くんが、ほんの少しだけかがんで、譲と目を合わせた。
「大丈夫です。ちょっと夏バテ気味なだけです」
「それならいいけど……無理しないでね?」
藤本くんは、まだ何か言いたそうだった。けれど、それ以上は踏み込まずに、困ったように笑う。
「白川さんは、頼まれると断れないところがあるから」
「そんなことないですよ。できる範囲でやってるだけです」
そう答えると、藤本くんはようやく頷いた。
午後から、藤本くんと図書館に向かった。
冷房の効いた館内に入ると、一瞬だけ体が楽になった気がする。
けれど、作業はなかなか進まなかった。時間が経つにつれて、どんどん体調が悪化してきた。
このままここにいて、もし本当に具合が悪くなったら、藤本くんに迷惑をかけてしまう。
譲はある程度のところで、「用事があるので帰ります」と声をかけた。
「送ろうか?」
「大丈夫です。近いので」
「……本当に?」
「はい。ありがとうございます」
藤本くんは、まだ迷っているようだった。
けれど、最後には「わかった」と頷いた。
「気をつけて帰ってね。宿の候補は、今日じゃなくていいよ。何かあったら連絡して」
「はい」
藤本くんを残して、図書館を出た。
そこから神社までの道のりは、あまり覚えていない。じりじりと焼けるような熱気と、体の内側から吹き上げる熱が相まって、とても気持ちが悪かった。
離れについて、汗でべたべたになった服を着替える。
熱を測ると、38度台になっていた。冷凍庫から保冷剤を取り出してタオルで巻き、額に当てる。薬を飲んで、少し休もうとベッドに横になった。
気がついたら眠っていたらしい。テレビの音で目が覚めた。
薄目を開けると、広い背中と金髪が見える。万華だ。
――ああ。夕飯を作らなければ。
もそりと起き上がった。保冷剤はとっくに溶けて、柔らかくなっている。
眠る前より少しよくなっている気がしたが、それでも全身を覆う気怠さは残っている。大したものは作れそうになかった。
せいぜい、卵焼きを焼いて、漬物とお茶漬けを出すくらいだろう。
それでいいですか、と万華に聞こうとして、彼がローテーブルの上に手を伸ばしたのが見えた。
出しっぱなしにしていた古いお守りだ。
祖父に聞くと、毎月1日と15日にやっているらしい。なら、それまでは持っていていいかな、と思って、まだ預けていなかった。
「すみません。それ、次のお焚き上げの時にお願いするつもりで、まだ……」
「なんで謝る?」
お守りから手を離して、万華が言った。不機嫌そうな声だ。
「すみません、ってのは、自分が悪いと思った時に言う言葉だろ。悪いとも思ってないのに、口先だけで終わらせようとすんなよ。気色悪い」
「そ……そんな、こと……」
「あるだろ」
言葉に詰まる。
確かに、自分が悪いことをしたか、と言われると、素直に頷けない。
なのに謝ってしまったのは、なぜだろう。
万華に散々言われていたのに、まだ手元に置いてしまっている自分の情けなさから?
あるいは、彼を怒らせたくないから?
「そういうとこだよ」
「……」
「おまえ、ほんと受け入れすぎなんだよ。そりゃ彼岸のやつらも居心地がいいだろうな。おまえなら受け入れてくれるって、どんどん集まってやがる」
万華は雑に息を吐くと、テレビを消して立ち上がった。
時間的に、まだ二時間は経っていないはずだった。
「ば、万ちゃん、どこに……」
「帰る」
「え、でも、これからごはん――」
「いらねえよ、熱あんだろ」
「でも」
「でもじゃねえ。寝てろ」
万華は玄関へ向かいかけて、舌打ちした。
「……くそめんどくせえ」
戻ってきたかと思うと、譲の頭上を片手で払う。
清々しく甘い香りが、熱で淀んだ空気を裂くように流れる。肩にまとわりついていた重さが、少しだけ消えた。
「病気のやつに気遣いながらテレビ見んの嫌なんだよ。今日の2時間は別日に回す。今のは貸しだ」
「あ……ありがとうござ――」
「貸しだと言った。さっさと寝ろ」
万華はそれだけ言って、今度こそ離れを出ていった。
――貸し。
乱暴にまとめられた言葉を反芻する。
スマホを確認すると、一時間前に、藤本くんから「無事に帰れた?」とメッセージが来ていた。
譲は「はい。ありがとうございます」と打ち込んで、布団に戻り、目をつむった。
清々しく甘い香りがまだ少しだけ残っていた。
怒られたのに、なぜか少しだけ息がしやすかった。




