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神は嘘をつかない  作者: 梨千子
3. 文字化けした名前
17/18

06

 ピピッという電子音がして、体温計を取り出す。37.6度。

 譲は息をついた。


 肩が重い。目の奥もじんじん痛む。

 けれど、休むほどではないと思う。

 

 朝の支度をする。今日はゼミのみんなと、9月に提出する課題について話し合うことになっていた。

 おなかはすいていなかったけれど、薬を飲むには何か入れた方がいい。焼いたトーストを半分だけ食べて、風邪薬を流し込んだ。


 夏休みに入ったキャンパスは、授業期間中よりずっと静かだった。

 それでも完全に無人というわけではなく、図書館へ向かう学生や、サークル活動らしい集団がちらほら歩いている。


「ユズー、おはよー!」


 学生ラウンジの一角で、理央が大きく手を振っていた。理央にしては珍しく早い。

 

「おはよう、白川さん」


 理央の向かいに、同じゼミの藤本くんが座っていた。

 藤本くんは広げていた資料を少し寄せて、隣の席を空けてくれた。

 彼は清潔感のある穏やかな人で、譲と理央が属するグループのリーダーだった。


「ありがとうございます」

「大丈夫? 顔、少し赤いけど」

「え、そうですか? 暑いからかも」

「無理しないでね。今日、ざっくり方針決めるだけだし」


 譲は少しだけ肩の力を抜いた。藤本くんはメンバーのことをよく見ている人で、こういうところがリーダー向きなのだろうなと思う。

 ふと理央を見ると、藤本くんに目配せして、にこにこしていた。


「何? 理央」

「んふふ、何でもなーい」


 なんだか妙に含みのある笑い方だった。


 しばらく三人で世間話をしていると、他のゼミ仲間たちが続々と集まってきた。

 佐伯くんが、手にしていたアイスコーヒーを掲げる。続いて三浦くんと真帆がやってきて、これで全員が揃った。


 六人で、課題の役割分担やスケジュールについて話し合う。


「結構、一人頭の調査量多くなりそうだよなぁ?」

「資料によっては、図書館に通う必要がありそうよね」

「郷土史調べがてら、現地の雰囲気もつかんでおきたいかも」

「げ。俺、来月8日から、合宿でほぼいないんだけど……」


 佐伯くんが困ったように頭を掻く。彼はテニスをやっていて、高校時代から大会で表彰されている有望選手らしい。

 藤本くんが手帳をぺらりとめくって、8月のカレンダーを確認する。


「8日からか。佐伯はそれまでにどれくらい動けそう?」

「あー、ぶっちゃけ地元のクラブでの練習もあるから、図書館は来られても1回か2回くらいになるかも」

「なるほど……確かにそれは、ちょっと微妙だな」


 佐伯くんは確か、大学まで片道一時間ちょっとかかる場所に住んでいたはずだ、と思い出して、譲は片手を上げた。


「あの、佐伯くんの調査分は、私が代わりにやります」

「マジで? 白川さん神!」

「ユズ~、大丈夫? 二人分って結構あるよ?」

「図書館で見る資料なら、私が一番大学に近いし。8月はずっとこっちにいるから」


 譲がうなずくと、確かに、という雰囲気が流れる。

 藤本くんが、顔を上げて、譲を見た。


「……じゃあ、白川さんお願いできる? ただ、二人分を全部引き受けてもらうのは量的に厳しそうだから、僕と分担しよう」

「え、でも」

「僕も大学からは近い組だし。二人でやったほうが早いよ。サークルもやってなくて夏休みは暇だからね、気にしないで」

「……ありがとうございます。じゃあ、お願いします」

 

 断る理由を探す前に、譲は小さく頷いていた。


「あ、じゃあさ。先に現地調査に行こうよ。ここって海が近いじゃん? 一泊二日で旅行を兼ねて行ってみるのアリじゃない? 佐伯もさ、そのくらいなら動けるんでしょ?」


 現地の地図を見ながら、理央が提案した。

 三浦くんが「ほう」と身を乗り出した。


「確かそばに温泉もあるんだっけ?」

「あるよ。海水浴場と温泉と、ちょっと移動すれば有名なテーマパークもあるみたい」

「メシも海の幸で美味いんでしょ? ありだな、それ。佐伯どうなの?」

「一泊二日か、まあそれくらいなら何とか……」

「じゃあ決まり。泊まるところと移動手段だけ決めよっか」

 

 正午を知らせる鐘が鳴った。時間切れだ。


「もうこんな時間? 午後からバイトだから帰らないと」

「俺も」

 

 予定のあるメンバーが次々に立ち上がった。


「ユズ、良かったら泊まるとこ、候補だけでも見といてくれない?」


 理央が、筆記用具とノートを鞄の中に詰め込みながら言った。

 

「いいけど、旅行は詳しくないから、適当に挙げるだけになっちゃうよ?」

「ありがと、助かる~! なんだかんだ、ユズならいい感じのとこ見繕ってくれそう」

「それはわかる。細かいとこまできっちりやってくれるし安心感ある」


 他のメンバーもそれに同意して、譲は軽く口の端を上げた。

 胃の裏側が撫でられるような感覚が走る。本格的に熱が上がってきたのかもしれない。今日は何も食べられそうになかった。


 打合せは解散になって、藤本くんを除く全員が、足早に帰っていった。


「僕は図書館に寄ってくるよ。ちょっとでも課題を進めておきたいから」

「あ、じゃあ私も――」

「いや、白川さんは帰った方がいいかも。なんだか顔色悪いよ。無理してるんじゃない?」


 鞄を持った藤本くんが、ほんの少しだけかがんで、譲と目を合わせた。

 

「大丈夫です。ちょっと夏バテ気味なだけです」

「それならいいけど……無理しないでね?」


 藤本くんは、まだ何か言いたそうだった。けれど、それ以上は踏み込まずに、困ったように笑う。


「白川さんは、頼まれると断れないところがあるから」

「そんなことないですよ。できる範囲でやってるだけです」


 そう答えると、藤本くんはようやく頷いた。


 午後から、藤本くんと図書館に向かった。

 冷房の効いた館内に入ると、一瞬だけ体が楽になった気がする。


 けれど、作業はなかなか進まなかった。時間が経つにつれて、どんどん体調が悪化してきた。

 このままここにいて、もし本当に具合が悪くなったら、藤本くんに迷惑をかけてしまう。

 譲はある程度のところで、「用事があるので帰ります」と声をかけた。


「送ろうか?」

「大丈夫です。近いので」

「……本当に?」

「はい。ありがとうございます」


 藤本くんは、まだ迷っているようだった。

 けれど、最後には「わかった」と頷いた。


「気をつけて帰ってね。宿の候補は、今日じゃなくていいよ。何かあったら連絡して」

「はい」

 

 藤本くんを残して、図書館を出た。

 そこから神社までの道のりは、あまり覚えていない。じりじりと焼けるような熱気と、体の内側から吹き上げる熱が相まって、とても気持ちが悪かった。


 離れについて、汗でべたべたになった服を着替える。

 熱を測ると、38度台になっていた。冷凍庫から保冷剤を取り出してタオルで巻き、額に当てる。薬を飲んで、少し休もうとベッドに横になった。


 気がついたら眠っていたらしい。テレビの音で目が覚めた。

 薄目を開けると、広い背中と金髪が見える。万華だ。


 ――ああ。夕飯を作らなければ。


 もそりと起き上がった。保冷剤はとっくに溶けて、柔らかくなっている。

 眠る前より少しよくなっている気がしたが、それでも全身を覆う気怠さは残っている。大したものは作れそうになかった。

 せいぜい、卵焼きを焼いて、漬物とお茶漬けを出すくらいだろう。


 それでいいですか、と万華に聞こうとして、彼がローテーブルの上に手を伸ばしたのが見えた。

 出しっぱなしにしていた古いお守りだ。

 祖父に聞くと、毎月1日と15日にやっているらしい。なら、それまでは持っていていいかな、と思って、まだ預けていなかった。

 

「すみません。それ、次のお焚き上げの時にお願いするつもりで、まだ……」

「なんで謝る?」


 お守りから手を離して、万華が言った。不機嫌そうな声だ。


「すみません、ってのは、自分が悪いと思った時に言う言葉だろ。悪いとも思ってないのに、口先だけで終わらせようとすんなよ。気色悪い」

「そ……そんな、こと……」

「あるだろ」


 言葉に詰まる。

 確かに、自分が悪いことをしたか、と言われると、素直に頷けない。

 なのに謝ってしまったのは、なぜだろう。

 万華に散々言われていたのに、まだ手元に置いてしまっている自分の情けなさから?

 あるいは、彼を怒らせたくないから?


「そういうとこだよ」

「……」

「おまえ、ほんと受け入れすぎなんだよ。そりゃ彼岸のやつらも居心地がいいだろうな。おまえなら受け入れてくれるって、どんどん集まってやがる」


 万華は雑に息を吐くと、テレビを消して立ち上がった。

 時間的に、まだ二時間は経っていないはずだった。


「ば、万ちゃん、どこに……」

「帰る」

「え、でも、これからごはん――」

「いらねえよ、熱あんだろ」

「でも」

「でもじゃねえ。寝てろ」


 万華は玄関へ向かいかけて、舌打ちした。


「……くそめんどくせえ」


 戻ってきたかと思うと、譲の頭上を片手で払う。

 清々しく甘い香りが、熱で淀んだ空気を裂くように流れる。肩にまとわりついていた重さが、少しだけ消えた。


「病気のやつに気遣いながらテレビ見んの嫌なんだよ。今日の2時間は別日に回す。今のは貸しだ」

「あ……ありがとうござ――」

「貸しだと言った。さっさと寝ろ」


 万華はそれだけ言って、今度こそ離れを出ていった。


 ――貸し。

 乱暴にまとめられた言葉を反芻する。


 スマホを確認すると、一時間前に、藤本くんから「無事に帰れた?」とメッセージが来ていた。

 譲は「はい。ありがとうございます」と打ち込んで、布団に戻り、目をつむった。


 清々しく甘い香りがまだ少しだけ残っていた。

 怒られたのに、なぜか少しだけ息がしやすかった。

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