02
時間が過ぎていく。
譲は、ごくりと唾を飲んだ。
目の前には、重厚な扉がある。その向こうは、神社の最奥に位置する、本殿と呼ばれる建物。
そして、どうやら万華の部屋でもあるらしい。
待ち合わせ時間から15分が過ぎて、拝殿前でうろうろしていた譲を、祖父が見かねたように事情を聞いてきた。
コーラさんと一緒にコーラミュージアムに行くのだ、と言ったら、祖父はものすごく驚いていた。
けれど、肝心のコーラさんが待ち合わせ時間にやって来ないのだ。
祖父は事情を理解して、本殿に繋がる扉を開けてくれた。
――あの方はまだ寝ていると思うよ。朝がとても弱いから。起こしてあげないと、自力で起きてくるのはきっと昼過ぎになるよ。
境内は夏でも少しひんやりした空気が流れていたが、本殿に近づくと、よりいっそう冷えた空気が立ち込めている。
ペールグリーンのワンピースの裾が、ふわりと揺れた。
譲はそっと、扉をノックした。
応答なし。
大きく息を吸って、扉に手をかける。
鍵はかかっていなかった。扉は見た目よりも軽く、簡単に開いた。
そっと中を覗き込んだ。
「コーラさん、いますか?」
声をかけた。
応答なし。
本殿の中は、薄暗かった。
窓はあったが、それを塞ぐように、大量の段ボール箱が積みあげられている。
四畳か五畳の部屋だと思うが、部屋の半分以上が同じ段ボール箱で埋まっていた。
よく見れば、コーラの箱だった。
もしかして、これ全部……。
靴を脱いで、中に上がった。
中はしんとしている。唯一、低い唸り声を上げているのは、段ボールに囲まれている2ドアの冷蔵庫だけだ。
奥にもうひとつ扉があった。横開きの襖。
手を伸ばして、けれど少しだけ迷った。
普段はしない細い腕時計が目に入る。時間がない。
「……あ、開けますからね」
声をかけてから、襖を開く。
窓は、閉められていなかった。カーテンはなく、日の光がまっすぐ入り込んで、部屋の中を柔らかく染めている。
大きめの寝台と、サイドテーブルがあるだけの部屋だった。テーブルの上に煙管が置かれていたが、火はついていない。
床は脱ぎ捨てられた服と、空のペットボトルで埋まっていた。
金色の髪が、枕に埋まっていた。柔らかい朝の光が落ちて、髪は空気に溶けこんでいるかのようだった。
閉じられた瞳。睫毛が影を落としている。あどけない寝顔。
うつ伏せだった。
裸の上半身がそこにあった。
普段は服と派手なアクセサリーに紛れて、体つきまで意識したことはなかった。
何も着ていない背中は、思っていたよりずっと広かった。肩から腰にかけて余分なものはないのに、筋肉の線がはっきりしている。柔らかな朝の光の中で、そこだけ妙に生々しい。寝台が狭く見えた。
布団がベッドの下に落ちている。
腰のあたりに、浴衣らしき布がくしゃくしゃとたわんでいた。帯がほどけ、浴衣の一部と一緒にベッドの下に垂れさがっている。かろうじて腰と片足に引っかかる形で保っているが、あと少しでも動いたら全部床に落ちて、その下が見えてしまう――。
譲は思わずのけぞった。足が滑って、冷蔵庫に肩をぶつける。しりもちをつく。どん、と大きな音がした。
もぞり、とベッドの上の腕が動いて、後頭部に手が埋まった。
低い声と吐息。ゆっくり瞼が開いて、譲の方をぼんやり映し出す。すぐに、顔がしかめられる。とても眠そうだ。
「あー……くそ」
声はかすれていた。
「なんだよ……だりーな、くそ」
つぶやいて、もぞもぞと動き出す。
衣擦れの音がした。とうとう浴衣が、重力に抗えずにずるりと落ちる――譲はぎゅっと目をつむった。
万華はその後も何度か呻きながら、体を起こしたようだった。衣擦れの音。それから、ぺたぺたと床を歩く音がする。
その音が近づいてきた。
「あ、あの! コーラミュージアムの予約がありまして、そろそろ出ないと間に合わなくて!」
足音が譲の近くまでやってきて、ふわりと上品な匂いがした。和室に入ったときのような懐かしい匂い。
そろりと目を開ける。
万華が立っていた。だるそうに髪をかきあげている。
浴衣は拾ったらしい。胸元は開いたままだったが、さっきよりは肌の露出が少なくなっていて、譲はほっと息をついた。
おもむろに、万華がしゃがんだ。
ぼうっとした顔のまま、譲の顔の横の段ボールに腕をつく。
光が遮られて、輪郭が浮かび上がる。視界いっぱいが、男で埋め尽くされる。
これは、いわゆる、壁ドンというやつでは――?
近づかれると、顔より先に体の大きさを意識してしまう。遠くから見ていると、整った顔や長い手足ばかりが目につくのに、こうして近くにいると違った。肩も胸も広い。視界の逃げ場がない。
怖い、とは少し違う。けれど、どうしていいのかわからない。
「こっ、コーラさ……」
横からガチャリと音がした。
ひやりとした冷気が流れ出す。
「え……」
開かれた冷蔵庫の中身が見えた。
上から下まで、ポケットもすべて、コーラ――。
その中の一本をつかみ取ると、冷蔵庫が閉まる。キャップを開ければ、しゅわ、と炭酸が吹き上げてくる音。
目の前で、コーラを飲む男の喉が上下した。
水滴が喉を伝って、胸元へ吸い込まれていくのが見えて――慌てて目をそらす。
「はー、目、覚めた」
明朗な声。万華がすっと立ち上がった。
「すぐ着替えるわ。ちと待ってて」
「……わっ、わ、わかりましたっ!」
譲は何とか立ち上がった。彼を見ないように、視線を落としたまま、すみっこを移動する。
「おい」
いぶかしげな声が、譲を引き留める。
譲の心臓が跳ねた。何かまずいことをしてしまっただろうか、と息が詰まった。
「おまえ、顔が真っ赤だぞ。熱中症か? ミュージアム行けるんだろうな?」
譲は顔を両手で覆った。いたたまれない。
「な、なんでも、ないです。外で待ってますから……!」
靴を履いて、外へ出た。
なんだかどうしようもなくて、譲は座り込んで膝を抱えた。
反則だ。




