恋愛編 ⑧
「…」
翌朝。私は、廊下の窓を拭きながら、不意に昨夜の出来事を思い出して、持っていた雑巾をぎゅっと握りしめた。
アルス様の、あのしなやかな指先。交わした言葉。世界が色鮮やかに彩りを帯びる、瞬間。そして、あの後の…。
(…いけないわ、私。仕事に集中しなくては…!)
ぶんぶんと頭を振り、無心で窓を磨こうとする。けれど、鏡のように磨き上げられた硝子に映る自分の顔は、隠しようもないほど真っ赤に染まっていた。
「あら、ベリル。…掃除の手が止まっているわよ。って、…顔、真っ赤じゃない」
背後から、クスクスと笑いを含んだ声が聞こえた。振り返ると、そこには朝の給仕を終えたマルタが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。
「マ、マルタ。ただ、少し、熱気にあてられただけで…」
「はいはい…それで、どうだったの?白状しなさい」
マルタが私の隣に並び、肩をぶつけてくる。隠しても無駄だということは、先日の深夜の追求で痛いほど理解していた。
「…私…返事をしたの」
「それって…例の、あれ?」
「ええ。…あれです」
「…なんて言ったの?」
私は、窓の方を向いたまま、消え入りそうな声で答えた。
「…………よろしく、お願いします…って」
次の瞬間、マルタの顔がパッと輝いた。
「やったわね、ベリル!!みんな――っ!聞いて――!!」
「ま、マルタ!?ちょっと、まだ業務時間内ですよ……っ」
私の静止も聞かず、マルタは脱兎の如き速さで廊下を駆け抜けていった。
数秒後、屋敷のあちこちから「キャー!!」「本当!?」「おめでとー!」という歓声が、一定間隔で聞こえてくる。
ああ、マルタ…もはや各所で触れ回ってるのね…。
遠ざかる歓喜の波を聞きながら、私はふと、磨き上げた窓の向こうにある、空を見上げた。
本当に、よかったのだろうか。
幸せだ。それは、間違いようのない事実。奴隷だった私が夢見ることも許されなかったほどの。
迷っていても、仕方がない。確かにアルス様は、愛を語って下さった。どんな形になるにせよ、もう決めたこと。
家族。
夫婦。
彼も、私も、本当の家族や夫婦というものを知らない。だけど、作り上げていけばいいんだ。二人だけの、夫婦を。そして、もしかしたら、増えるのかもしれない、家族を。…こうして未来を考えられるなんて、それだけで幸せだ。
私は、彼の傍らで、あの瞳に映る景色を少しずつ鮮やかな色に変えていく。
それが、私に再び命をくれたあの方への、たった一人の「妻」としての、一生をかけた私の使命なのだから。
「…よし、頑張ろう」
熱い頬のまま、私は再び雑巾を動かし始めた。これから、私たちの素晴らしい物語が始まるんだ。
そういえば、リナが、前に言っていた。
『おとぎ話の終わりは、いつだって”みんな幸せに暮らしました”なんだから』
きっと、”そう”なるに違いない。
※この小説を面白いと感じていただけましたら、★★★★★の評価と【ブックマーク】で応援お願いします。




