愛情編 ⑦
一人、広い客室の中で、耳鳴りだけが響いている。豪奢なベッドの端に腰掛け、私はただ、重い扉が開く音を待っていた。
アルスと何を話したんだ。
アンナ、早く戻ってきてくれ。
そして、いつものように「疲れが出たのね」と微笑んでくれ。
ガチャン、と。祈りを切り裂くように、扉が開いた。
「…アンナ。遅かったじゃないか。子供たちは?」
「庭園で使用人さん達と遊んでいるわ」
入ってきたアンナの声は、明らかに沈んでいた。外から差し込む日の光に照らされた彼女の顔を見て、私は息が止まりそうになる。
…かつて一度も見たことのない、冷え切った目。
「アルスと、何を話したんだ…」
アンナは、一拍、呼吸を置いてぽつりと話し始めた。
「『昔のこと』を聞いたわ。あなたの故郷の村の出来事。『悪魔』と呼ばれ、石を投げられていた子供のこと――」
心臓を素手で握りつぶされたような衝撃。
「…違うんだ!アンナ、聞いてくれ!あれは、仕方がなかったんだ!」
私は遮り、必死に言葉を重ねる。
「否定から入るのね…やっぱり、そうだったのね…。私は、一言もあなたの仕業とは言っていないわ」
すべてを悟ったような、彼女の顔。
「あ、ああ、あいつは気味が悪かったんだ!感情がなくて、冷え切った目で私たちを見ていた!呪われる、村が悪魔に食われるって、みんなが言っていた!私は…私はただ、親父の、村長の子供として、みんなの不安を取り払おうとしただけなんだ!」
「自分より弱い者を虐げることが、正しい行為だと言いたいの?」
アンナの言葉が、私の内臓をかき乱す。
違う、違うんだ。
私はあの村の子供連中のリーダーだった。弱虫な連中を引っ張り、不気味な悪魔を追い出す正義の味方だった。そして、王国の騎士として戦地を駆け、今もこうして、命がけで家族をここまで連れてきた。
私は「正しい父親」で、「強い男」なんだ…!
アンナは、がっくりと肩を落とし、さらに正論で追い打ちをかける。
「自分自身で『正しい』と思っていた行為。それなのに貴方はこうして塞ぎ込んでいる。それこそが、あなたが、後悔している証拠ではないのかしら」
沈黙。
長年連れ添った女性だ。語らずとも、全て見透かされていた。
「大体は分かったわ。でも、一番、確認したかったことを、改めて、あなたの口から直接聞かせて」
アンナは私の方に向き直り、絞り出すように、そして歯切れ悪く、何か、そう、核心的な何かを、突こうとしていた。
「………あ、ああ、何だい」
「『悪魔』とは、アルス様の事で、間違いないのね」
「…………………そうだ。私が『悪魔』と罵り、仲間を扇動し、石を投げたのは、殴りつけたのは、紛れもなく………アルスだ」
それを聞くと、アンナは気が抜けたようにその場へ崩れ落ちた。
彼女の頬を、一筋の涙が伝う。
「信じたく、なかった。愛する、夫が。子供たちの、良き父親が。窮地を、救ってくれた、助けてくれた恩人に、無実の子供に、そんな、そんな、酷い、仕打ち、仕打ちを…。うっ…うううぅっ…」
彼女は堪え切れなくなり、嗚咽を漏らしながら泣き崩れる。気丈な彼女が、ここまで泣き崩れることなど、見たことがない。その事実が、更に私を引き裂く。
「幼い子供が、したことだ。村も、魔物に襲われ壊滅した。終わったことだと、仕方なかったと。言い聞かせ、押し殺した。だが、ここには、アルスがいた」
一つ一つ、言葉を紡いだ。言い訳かもしれない。今更遅いのかもしれない。だが、妻には、アンナにだけは嘘をつきたくなかった。
「あいつの顔を見た瞬間…。記憶の奥底に無理やり押し込んでいた後悔が、蘇ってきたんだ。今は私も人の親だ。リナやパウル、そしてアンナ。大切な人がいる。だからこそ、分かってしまったんだ。自分があいつに、あいつの家族に、どれだけの傷を負わせてしまったのかを」
リナやパウルが、同じ境遇だったら、私はどうしていただろうか。怒りに身を任せて、暴力を振るっていたかもしれない。
だが、アルスは何事も無かったかのように、笑顔で、私たち家族を救ってくれた。 それが、その事実が私を更に追い詰める。
重苦しい沈黙。
何分、何時間そうしていただろうか。
やがて涙が枯れ果てたように、彼女は立ち上がった。
「…わかったわ。あなたも、心から反省している。その事実を、アルス様に伝えましょう」
肥大化した自責の念が、私の理性をじわじわと蝕んでいくのを感じていた。
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