愛情編 ⑥
「――アンナさん。少し、お話をいいかな」
子供たちが庭で遊んでいる間、私はアルス様に呼び出され、彼の書斎を訪れていた。磨き上げられた机。壁一面を埋め尽くす、難解な本の数々。その中央で、アルス様は穏やかな笑みを湛えて椅子に座っていた。
「ガイはどうだい? まだ寝込んでいるようだけど」
「はい、…ご心配をおかけして申し訳ありません。旅の疲れが出たのだと思います」
私は、少しだけ嘘をついた。
夫が震えているのは、疲れのせいだけではない。目の前に座る、この「聖者」を恐れているのだ。
「そうか。…ガイとは、あの村を出てから出会ったのかい?」
「はい。王国で彼と出会いました。…あの村とは… ガイの故郷のことでしょうか」
アルス様は、少しだけ目を細めた。その瞳の奥に、得体の知れない光が走る。
「そうだよ。君にとって、彼はどういう人物なのかな。子供たちの話によると、王国で何度も戦功を上げた勇ましい騎士だったそうだね」
「ええ、自慢の夫です。村を魔物に襲われ、家族も身寄りも失いながら、たった一人で王国まで辿り着いた、強い人です。私や子供たちのことも、ここまで命がけで守ってくれました」
【アンナ:子への愛情 94、夫への愛情 84、アルスへの疑念 18】
私がそう答えると、アルス様は「なるほど」と頷き、手元のティーカップを弄んだ。
「強い、か。確かに、彼は君たち家族への愛情に満ちている。あの村でも、何かを必死に守っていたよ」
そう語る彼の目つきが、鋭く私を刺す。空気が、一瞬で凍り付いた。
「…どういう、意味でしょうか?」
「当時、あの村には迫害されていた子供たちが居たんだ。悪魔と呼ばれていた男の子と、それを庇う女の子だ。その子たちは、石を投げられ、殴り、蹴られた。大人たちは、それを冷ややかに見守っていたよ。そして、彼もその渦中にいた」
心拍が、ドクンと跳ね上がる。
脳裏に、夫が時折見せていた「暗い影」が重なる。アルス様は、明らかにこの件を当事者として語っている。夫は、彼は、加害者なのか、被害者なのか、それとも傍観者か…。
「彼は君たち家族と同様に、守ったんだ。その悪魔を執拗に責め立てることでね。何を守ったかって?村かな、家族かな、居場所かな…。いや、自らが知りえない物への畏れから、自分を守ったのかもしれない」
夫は、率先して、その『悪魔』を迫害していた。詳細は分からないが、その事実が私を突き刺す。
「彼は、人間としてとても『正しい』よ。自らが知りえない物には恐怖を感じるものだ」
アルス様の表情からは、真意が全くと言っていいほど読み取れない。
「でも、その『悪魔』が、もし、何の罪もない子供だったとしたら?」
私の背中を、なにか、うすら寒いものが通り抜ける感覚。
「例えそうだったとしても、彼には『悪魔』が理解できなかったんだ。ましてや、まだほんの子供さ。仕方のないことだよ」
「アルス様は…その、あ――」
「まあ、いいじゃないか。ここでゆっくりと旅の疲れを癒していくといい。急に呼び出してすまなかったね」
私の言葉は、彼の言葉でかき消された。かき消されたが、次の言葉が出なかった。
私は、夫が隠していた「パンドラの箱」を、アルス様の流麗な手つきで無理やり開いたような…。凄まじい倦怠感に襲われる。
英雄、騎士、優しい父親。私が信じてきた彼は、強く、たくましい。もしかすると、それらは、幻想なのかもしれない。
だが、彼自身の口から、直接聞く必要がある。恩人の言葉であれ、鵜呑みにすることは彼を信じていない事と同義だ。
アルス様は、澄んだ瞳で私を見つめ、静かに微笑んだ。
私は一礼し、逃げるように書斎を後にした。
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