愛情編 ④
「…ねえ、あなた。少しは食べないと。せっかくアルス様が用意してくださったのよ」
私は、運ばれてきたシチューを前に呆然とする夫、ガイの背中に声をかけた。王国を脱出し、この屋敷まで逃げてくるまでは、もっと逞しく、頼りがいのある人だった。
混乱の最中、必死に私と子供たちを守り抜いてくれた、私の愛する夫だったはずだ。なのに、今の彼はどうだ。アルス様から与えられた清潔な寝巻きで、小刻みに震えている。
まるで、温かいスープの中に毒でも入っていると怯えているかのように。
「…ああ、わかっている。…わかっているんだ、アンナ…」
夫は掠れた声で答え、震える手でスプーンを握った。けれど、その視線は虚空を泳ぎ、時折、扉の向こうに怯えるような視線を向ける。
(…おかしいわ)
アルス様は、本当に「慈悲深い人格者」そのものに見える。
私たちのような、行く宛のない難民のために最高の客室を与え、使用人たちにも優しく接していらっしゃる。だというのに、どうして夫はあんなに怯えているのか?
「古い友人」だと言いながら、夫の態度には、そんなものかけらも感じない。
ふと、昼間に見た光景を思い出す。アルス様がリナと会話をしていた時、ガイはまるで、我が子の首元に刃を突きつけられたかのような、悲痛な顔をしていた。
(あなたは…一体、何にそんなに怯えているの…?)
「お父さん、このシチュー、すごくおいしいよ!」
パウルが無邪気に声を上げる。リナも、客室の豪奢なベッドに喜びを隠せない様子だ。子供たちの笑顔だけが、今の私の唯一の救いだ。
「…ええ、よかったわね。パウル、リナ」
私は子供たちの頭を撫でながら、心の奥底で小さな疑念が育つのを感じていた。過去、アルス様と夫の間に何があったのか。
「…ねえ、ガイ。何をそんなに…」
そう言いかけて、私は口を閉ざした。今の彼にそれを問うのは、崩れかけた城壁に最後の一撃を与えるようなものかもしれない。
夜の帳が下りた豪華な客室。私はただ、見えない何かに祈るしかなかった。
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