愛情編 ③
その日の夜、客室。
湯気の向こう側で、二人の子供が夢中になってシチューを口に運んでいる。
リナ、と呼ばれた少女と、その弟のパウル。それを見守る母親のアンナの瞳には、安堵と、この豪華な屋敷への戸惑いが混ざり合っていた。
「…熱いですから、お気をつけてくださいね」
私は、アルス様に教えられた所作で、追加のパンをテーブルに置いた。
かつての私なら、この幸福そうな家族を激しい嫉妬と憎悪で見ていただろう。自分はあんな風に愛された記憶なんてない、と。
けれど、今の私は違う。
私は一度、身の程知らずな傲慢の果てに地獄へ堕ち、アルス様とマルタに拾い上げられた「端切」に過ぎない。今の平穏がいかに脆く、そしてこの屋敷の主人がいかに「特別」であるかを知っている。
「ベリル、あちらのご主人…」
開いた部屋の扉、給仕用のワゴンに手置き、マルタが心配そうな顔で私に小声で尋ねてきた。彼女の視線の先には、食事を前にして石像のように固まっている、一家の主、ガイの姿があった。
「…ええ。震えています」
「やっぱり。…アルス様は『古い友人』だと仰っていたけれど、あの様子はとてもそうは見えないわ」
マルタの手元で、茶葉を量る銀の匙が小さく音を立てた。彼女も気づいているのだ。アルス様が彼らを招き入れたのは、純粋な慈悲ではない。
新しい、思いつき…、あるいは実験…。
「マルタ…」
私は無邪気な子供たちを一瞥し、マルタに問う。
「…そうね。ただ『救われた』と信じて喜んでいる…」
でも、アルス様の心に、もしかしたら、ほんの少しでも慈悲の心があるのだとしたら。『人道的』な考えが、芽生えているのだとしたら。今度は、私がアルス様の太陽になれるのだとしたら。…いや、おこがましいにも程がある。
「彼らに、心からの救済を…」
私は自分に言い聞かせるように、低く呟いた。アルス様という太陽が照らすこの屋敷は、あまりにも明るい。 けれど、その光が強ければ強いほど、そこに落ちる影はどす黒く、深い。
ガイというあの男。彼が屋敷を包む「影」に気づいた時、その愛する家族をどう守り切るのか。
かつて淑女の夢を見た石ころの私は、ただ、給仕を続けることしかできなかった。
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